「空襲」と「原発事故」 時代・土地に翻弄された90歳 ~福島県・南相馬 日高美奈子さん~
「誰か一人がめそめそね、『母ちゃん』って泣くでしょう、一人が。そうすると(寮の一部屋の)15人みんなでわあわあって泣いて、(引率の)先生がびっくりして、部屋に来たったこと(が)あるけどね。」 郡山を襲った空襲は、他の多くの都市空襲とは違い日中のことでした。 米軍は、日高さんのいた工場と軍用機のガソリン添加剤を製造する「保土谷化学郡山工場」に143機もの大型爆撃機B29を向かわせたのです。投下されたのは、都市の住宅地を焼き払う「焼夷弾」ではなく大型の250キロ爆弾。軍需工場の施設を破壊するのが目的だったからです。
爆風に吹き飛ばされ
空襲のあった4月12日はよく晴れた日でした。昼食前に手を洗っていた日高さんは、空襲警報の音に驚いて空を見上げるとキラキラと輝くジュラルミンの機体が複数目に入りました。B29の編隊です。爆撃機が爆弾を落とし始めると、日高さんはすぐに、同じ職場のみんなで近くの防空壕に飛び込みました。 「そのうちに近くに爆弾落ちて、壕の天井の土がバタバタって落ちるのよね。崩れるのよ。それは危ないからっていうんで、みんなで防空壕から出ようって言って、出て逃げた人はまだよかった。防空壕に残った人は死んだ人もいるのよね。私の同級生も二人助けられたけど、一旦は埋まってしまったの」
逃げる途中にも、周囲に爆弾が落ちて爆風に倒されたと言います。 「爆弾落とされるでしょう。その爆風でバターンって倒れるのね。その前走っていくから、バターンって倒れて、ああ、死んだって思ったわ。すると、死んだって思っても、あら、何でもないって、また逃げろってみんなで、バタバタ逃げて。後から後からそれが続いたんですよ。だから、戦場と同じだったね、こっちは戦うことはできなかったけどね」 走って逃げる途中、何人もの遺体が転がっていました。 「逃げる途中に、早く逃げた人が亡くなってるのよ。それが、手がなくなったり、足のない人とか横目に見ながら、おっかないとも何とも思わないで」 一緒に逃げた人々と山の中で日が暮れるまで身を隠していました。夜になって工場に戻ってみると、どの建物も無残に破壊し尽くされていました。可燃性の原料が大量にあった倉庫はまだ燃えていて3日後までくすぶっていたと言います。そして、焼け残った聖堂の中に何十体もの遺体が並べられていました。