92歳の弁護士、手塚正枝さん「朝ドラモデル・三淵嘉子先生は、チャーミングな人だった。親孝行したくてなった弁護士を、細く長く続けて」
もうひとつは、大学構内で「法学研究室」の貼り紙を見たこと。授業でわからないところを教えてくれるのかしら、と呑気な気分で入ったら、なんとそこは司法試験の勉強をする集まりだったのです。 合格者数で制限するのではなく、いい点をとれば誰もが受かる試験。そう思うと俄然やる気が湧き、同世代の仲間たちと切磋琢磨できたものでした。勉強はとても楽しく、生涯の友と友情を育むことができましたし、後に夫となる手塚(義雄さん)との出会いも、この研究室です。彼は私より少し後に入室してきました。 司法試験の合格発表は、手塚と2人で見に行きました。発表を待つ間に入った法務省近くの喫茶店には、映画『シェーン』の主題曲が流れていましたね。合格を見届け、嬉しい気持ちで霞が関から大学のある駿河台まで、一緒に歩いたのもいい思い出です。 ただ、私が弁護士を目指した一番の理由は、両親に親孝行したかったからだったように思います。短大に入学した年の5月、福島で弁護士をしている父が下宿先を訪ねてきて、せっかく法律科に入ったのだから司法試験を受けてはどうかと言うのです。 まだお金に困っている人が多い時代。父が受け取る法律相談の報酬はお米ならいいほうで、野菜ということもよくあり、わが家は経済的に決して豊かではなかった。私の1歳下には弟もいて、それでも両親は授業料も下宿代も高い東京の私大へ私を送り出してくれたのです。 その日、帰る父の後ろ姿を見送りながら、私は申し訳なくて涙が出ました。短大を出ただけでは司法試験の受験資格はないと聞かされていたからです。その後大学に編入できると知り、法学研究室に入室したこともあって、司法試験に合格して親孝行したいと思うようになりました。 父には、知らずしらずのうちに法曹の道に導いてもらっていたのかもしれません。
◆法律家には多少の反発心があったけれど 私は東京・麻布永坂町で育ちました。二・二六事件(1936年)のとき、流れ弾が飛んでくるかもしれないと、父が畳を上げて備えていたことをおぼろげに覚えています。 小学校に入る前の年に父が応召し、生計を立てるために母は自宅で塾を始めました。「復習塾」と書いた看板を掲げ、着物の洗い張りに使う張り板に脚をつけた即席の机を、2階の座敷にずらりと並べてね。 母は故郷の町でただ1人、師範学校に推薦されたのだそうです。結婚するまで学校の先生をしていたので、昔取った杵柄というわけね。 当時から東京には中学校や女学校入学を目指す受験生がいましたから、通ってくる子どもはたくさんいました。教え方もうまかったようで、立派な鯛やお赤飯といった合格祝いのお裾分けをいただいたのを覚えています。 母は「着物はいくら作っても火事に遭えばなくなってしまうけれど、身につけた教養は振っても落ちない」とよく口にしていました。そういう母の影響もあってか、私には「お嫁さん」への憧れが一切ありませんでした。 いずれ働いて経済的に自立するのが当たり前だと思っていましたし、漠然と母と同じ教員になるものと考えていました。
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