ロッテにトレード加入も「名古屋に帰っていいよ」 7月に告げられた“事実上の戦力外”
高木監督続投で立ち消えになった中日復帰…プロ18年で現役生活に幕
1994年の中日はシーズン中盤まで首位・巨人から大きく引き離され、8月には高木守道監督の退任と星野監督のカムバックが確実視されていた。ところが終盤に巨人が大失速し、中日も猛追。勝った方がリーグ優勝という巨人との10・8決戦までもつれこんだ。結果、巨人に敗れたものの、この戦いぶりで高木監督の続投が決定し、星野監督の復帰はいったん消滅。それとセットで考えられていた宇野氏の復帰も急転、立ち消えになったわけだ。 「『中日でも成績が悪ければファームだぞ』って言われてもいたんだけど、星野さんが(監督を)やらないなら、俺もないんだなっていうのはすぐに切り替えられた。踏ん切りがついたというか、その時はもう他球団のテストを受けてまでやるつもりはなかったしね」。それで引退を決意した。プロ生活を18年で終えることにした。通算338本塁打、1620安打の成績を残し「ウーヤン」の愛称で人気もあった実力者は引退試合などをやることもなく静かにバットを置いた。 「確かに俺って何もなく消えていったなぁっていうのはあるけど、引退試合とかさ、ああいう感情の出るゲームってあまり好きじゃないから、別にそれはなくてよかったと思っているよ。変な話、なかった方がよかったかなって思うくらいだよ」と宇野氏はそこに悔いはないという。ただ、中日復帰に向けて一時はやる気になっていただけに、それに関しては「ちょっと後悔があったかな」とも口にした。 「チャンスがあっただけにね、もう1回、最後に何か燃えるものが少しは出るかなって思っていたし、やってみたかったというのは確かにあったよね。まぁ、あの時、36(歳)だったし、やってもあと1、2年だっただろうけどさ」。星野氏はその代わりにテレビ局の仕事を紹介してくれたという。「また電話がかかってきて『お前にも解説の道があるだろうから』ってね」。 1981年の巨人戦(後楽園)での”ヘディング守備“が代名詞のように言われる宇野氏だが、1984年に本塁打王に輝き、1985年にはNPB遊撃手シーズン最高の41本塁打を記録したパワフルな強打も、強肩の守備力も抜きん出た存在だった。中日16年、ロッテ2年。現役最後は寂しい終わり方でも「ウーヤン」が伝説のスター選手であることに変わりはない。
山口真司 / Shinji Yamaguchi