なぜタイへ? 経験生かし教師やオーケストラ支援 シニアたちの「第二の人生」とは
■スラム街の子どもオーケストラ支援
一方、バンコクのスラム街を歩く日本人女性がいました。タイに移住して30年の加古川成子さん(68)。不法に建てられた住宅などに10万人が暮らすという場所です。 加古川さん 「麻薬や犯罪に染まってしまう、誘惑がいつもある場所」 向かったのはスラム街にある小さな教会。そこには、スラム街で暮らす子どもたちで構成された「イマヌエルオーケストラ」。 加古川さん 「あの子どもたちがもしバイオリンに出会わなかったら、プラスチックを拾ったり、その日暮らしというかあまり職業の選択肢がない」 音楽大学を卒業後、ピアノ教師をしていた加古川さんは、30年前タイ人の男性と結婚しバンコクへ移住。オーケストラとの出会いのきっかけは東日本大震災でした。 加古川さん 「スラムの方たちが(募金箱に)お札を入れて、(日本を)支援してくださっている姿を見て心に残っていた」 スラム街の教会を訪ねた加古川さんは、使わなくなった楽器を寄付。子どもたちへの支援を始めました。その支援は次第に広がり、去年、日本での演奏ツアーが実現しました。 女子生徒(17) 「まさか日本に行けるなんて夢にも思っていなかったわ」 男子生徒(14) 「将来は世界で演奏するバイオリニストになりたい」 加古川さん 「最初は『支援したい』という気持ちだったが、教えられることが多い。輝いている彼らを見て、夢をもっと私自身も大きく持てるようになった。出会いにとても感謝しています」
■JICAに応募し日本語教師としてタイへ
タイで活躍するシニアは地方にもいます。バンコクから飛行機で1時間半、マレー半島西部のかつて貿易の拠点として栄えた小さな港町。そんな街の高校では…。 村田幹夫さん(72) 「読んでくだい」 生徒 「病院の中で大きい声で」 タイでは今、日本語を教える高校が増えています。教えているのは、この町でたった一人の日本人教師、村田幹夫さん72歳です。 生徒 「村田先生の日本語の授業はとても分かりやすくて大好きです」 「日本人と付き合いたいんだ」 お昼過ぎ向かったのは、学校の食堂。様々な料理の中から食べたい物を選んで購入します。この日村田さんが選んだのは、ライスの上に、目玉焼き・豚肉のガパオ炒め・グリーンカレーをかけた「ぶっかけ飯」のようなものです。 村田さん 「40バーツ(約170円)。経済的」 生徒たちのテーブルに混ざって、一緒に食べます。定年まで40年数学の教師を勤めた村田さん。「海外で教師をしたい」という夢が諦めきれず、タイ語は話せませんでしたが、JICA(国際協力機構)に応募しました。 村田さん 「(JICAの)応募資格が69歳だったので、これが最後のチャンスだと思って」 最初、妻は驚いたといいますが…。 村田さん 「『あなたが行きたいならどうぞ』『家のことは私がしますので』と。感謝しています」 村田さんがこの町で暮らしている部屋は、キッチン無しのワンルームで家賃は月2万2000円ほどです。家賃と食費などはJICAから支給され、年金を使う必要はないといいます。 朝食は毎日、近くの店で買った食パンや果物。夕食は屋台で食べることが多いといいます。 村田さん 「タイという国は思った以上に良いですね。食事も合いますし。食べたい物食べて、毎日ビールを飲んでも(1カ月の食費は合計)3万円くらい」 そして村田さんの楽しみが、地元の仲間たちとのテニスです。 テニス仲間 「ちょっと!どうせなら後ろの仲間たちも映る場所でインタビューしてあげてよ」 村田さん 「みんなとても親切ですよ。私が言葉が分からなくてポツンといた時に『ミキオ、ミキオ』と。助かりました。うれしかったです」 この日は放課後、川の女神に感謝を捧げる「ロイクラトン祭り」がありました。生徒と一緒にバナナの葉っぱで作った灯籠(とうろう)を池に浮かべます。 村田さん 「(タイの)生徒は非常に素直だなという気がする。『先生、先生』と声をかけてくれるし、笑顔が可愛いですよね。(タイに)来て良かったなと。自分が日本で教えた経験が今役立っているなと」
テレビ朝日