「桜の花びらのような無数の遺体、今も夢に見る」無戸籍で約80年生きた戦争孤児が明かす、壮絶な半生(後編)
もちろん戸籍上の本名ではない。彼が口にしたことが全て真実とも限らない。ただ、その後に聞かせてくれた、戦後から現在に至るまでの自分史は具体的で、迫真性に富むものだった。 実家は、浅草にある言問橋の近くだったそうだ。煙を上げ燃えさかる街。川には、水面を流れる桜の花びらのように無数の遺体が浮かんでいた。 「ああいう時は無感情になる。だから1枚の写真のように焼き付いてるんだよ。たまに夢に見る」 空襲で家族を失った後、上野駅周辺で暮らした。身寄りがなく、「浮浪児」とさげすまれた。やがて御徒町の闇市で「親方」と呼ばれる男に拾われる。「靴磨きの仕事ならできるよ」と声をかけられたのがきっかけだ。親方の姓の「亀田」を名乗ることに決めた。 靴磨きの料金は、日本人サラリーマンが1回5円。これに対して米兵は1ドル札とチップを支払ってくれた。1ドル=360円の固定相場制の時代。駐留軍相手の仕事はまさに破格だった。
ガード下で野宿しながら少年十数人でグループを作り、東京駅や上野駅、秋葉原駅前の職場を行き来する生活だった。給料は全部山分け。朝、目を覚ますと、隣で寝ていた仲間が冷たくなって死んでいたこともあった。昨日まで元気だったように見えたが、そうではなかったのだろう。 「一人働かなかったら、他が余計に働かなきゃいけなくなるから、『すまねえ』って病気を言い出さないんだよ。その頃は雪もよく降ったから、今よりひどく寒い」 東京都は戦後、浮浪児たちがたむろする上野を中心に、彼らを捕らえて保護施設に収容していた。「刈り込み」と呼ばれた施策だ。戦後混乱期の治安維持が目的だったとされる。ところが、浮浪児たちの間では「保護施設に行けば腹が減る」「着物がない」「病気をもらう」とうわさされた。脱走者が相次ぐほど劣悪な環境だったという。 「だから俺は行かなかった」。4~5年で親方の元を離れ、闇市に舞い戻った。親方はもめ事に巻き込まれて死んだと人づてに聞いた。