「桜の花びらのような無数の遺体、今も夢に見る」無戸籍で約80年生きた戦争孤児が明かす、壮絶な半生(後編)
―先ほど「戸籍が無い」とおっしゃった。戸籍が無くて困っていることはありますか? 「病院には30年くらい前にけがをして行ったきり。一回保険証無しで行ったら分かるよ。少し薬を塗るだけで何万、何十万だ」 「家も借りられない、電話も持ってない、銀行口座も作れない、病院も行けない。みんな要るでしょ…」 ―戸籍を作ろうとは思わなかったんですか? 「窓口で相談したけど、取れなかったんだよ。今さらやって何年かかると思う?その間に死ぬよ。もし取れたって何になる?」 帰り際、また来て良いかと尋ねると、彼は素っ気なくこう言って「家」へ帰って行った。 「もう話すことはない。記者がまた来た試しがない」 ▽配当金300万円 彼は河川の氾濫被害を取材しに訪れた記者と話したことがあるらしい。ただ、「2回来た記者はいない」。 その言葉を思い出しながら、その後もダイスケさんの元に通った。一緒に飲もうとコーヒーを持っていったり、冬場はカイロや日本酒を持参したり。会話の入り口は決まって今日聴いたラジオの話。通ううちに彼の日常が少しずつ見えてきた。
ダイスケさんの日課は、早朝からのアルミ缶回収。暇があればボートレースや競馬に興じる。周辺に暮らすホームレス仲間と少額を出し合い、当たれば山分け。1日当たりの配当金の最高額は「300万円」と少し自慢げに話してくれた。もうけが出ると半額をため、残りの半額は次の軍資金に回すのがセオリーらしい。 拾ってきた物がフリーマーケットなら高値で売れるだとか、ボランティアへのぼやきとか。「逮捕するぞ」と退去を迫る警察官や、宗教勧誘の話なんかもしてくれた。戦争以外の話をする時のダイスケさんの表情は、少しだけ柔らかかった。彼の上に2人のきょうだいがいたことなど、徐々に昔話もしてくれるようになっていた。 ▽明かしてくれた「名前」 2023年の暮れ、いつものように「ダイスケさん!」と声をかけると、意表を突く返事が返ってきた。「ダイスケじゃないよ、『亀田俊夫』(仮名)。靴磨きの親方につけてもらったんだ」。出会いから5カ月、初めて彼の「名前」を知った。