「桜の花びらのような無数の遺体、今も夢に見る」無戸籍で約80年生きた戦争孤児が明かす、壮絶な半生(後編)
亀田さんは「自宅が言問橋のそばだった」と証言している。岩田さんは、幼少期に暮らした場所を本所区(現墨田区)か浅草区(現台東区)と推測した。岩田さんによると、本所区の戸籍原本は戦火で焼失し、浅草区は一部しか残らなかった。しかし、裁判所で別に保管されていた副本を元に、いずれも復元されているという。ただ、残念ながら亀田さんの家族に関する情報は無い。4歳だった亀田さんに根拠となりそうな記憶を求めるのは酷だ。 では、新たに戸籍を作る「就籍」はどうか。就籍の手続きは役所で完結せず、家庭裁判所の審判が必要になる。場合によっては調査官がルーツを当たる。本人から成育歴や親族関係を聞き取ったり、市町村や通った学校に照会したりする。 ただ、亀田さんにその気はないようだ。これまでも、知り合った社会福祉士などから何度か就籍を勧められたらしいが、その都度拒んだという。理由は、この国に対する諦めだ。 ▽誕生日は東京大空襲の日。「俺は生まれ変わった」
亀田さんは戸籍上の本名や誕生日、家族の顔などとうに忘れたという。「初めは覚えてたけどさ、年月がたったり、名前を付けられたりするうちにさ、ごちゃごちゃになって分かんなくなっちゃったんだよ」 ずっと「亀田俊夫」として生きてきた。誕生日は「空襲の日だ。生まれ変わりだ」。 この先どう生きていくのだろうか。身分証がなくて家を借りられないため、路上生活を続けるしかないと話す。一方で、吹っ切れたように言った。 「俺は自然淘汰でいい。そのうちここも追い出されるから、次に行かなきゃ。自分の死に場所は、自分で選ぶ」 亀田さんに、ここ1年で最も気になったニュースを尋ねたことがある。答えは「パレスチナ」だった。イスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘で多数の民間人犠牲者が出ていることに実体験を重ねたようだ。「戦争はいけない。どっちが良くても悪くてもさ、普通の人が被害を受けるからね」。声に実感がこもっていた。