昭和100年へ 球界に語り継がれる「伝説の10・19」顔面蒼白の吉井理人を殴って落ち着かせ…現場にいた選手が語る壮絶舞台裏
昭和63(1988)年10月19日。当時ロッテの本拠地だった川崎球場が、超満員の観客で埋まった。ダブルヘッダーで2連勝が優勝の条件の近鉄は第1試合を競り勝ったものの、第2試合は延長十回、時間切れ引き分けで優勝を逃した。令和となっても野球ファン、関係者の記憶に残るパ・リーグ屈指の名勝負を生んだ背景には、当時のルール、球場事情があった。(取材構成・松尾雅博) 【写真】川崎球場跡地を訪れた阿波野氏。後方は「10・19」で見物人が鈴なりになったマンション 午後10時42分。ダブルヘッダー第2試合の延長十回表、近鉄は無得点に終わり、優勝の夢は事実上ついえた。その裏、ロッテも無得点で時間切れ引き分け。4-3の八回、高沢秀昭に同点弾を許した阿波野秀幸は「この日の主人公は野球。筋書きのないドラマは〝未完〟で終わってしまった。十二回までやれていたら、スッキリしていたかもしれない」と述懐する。 近鉄優勝の条件は連勝のみ。第1試合は秋晴れの空の下、午後3時に始まった。最下位がほぼ確定していたロッテも、ベストメンバーで臨んだ。 「試合前に有藤通世監督から『近鉄にも(首位の)西武にも失礼にならないように、全力でいくぞ』と話がありました」と高沢。首位打者争いをしていた高沢も例外ではなく、「4番・中堅」で出場した。 当初半分ほどの入りだった観客席は、日が暮れる頃には超満員。入場できないファンは、近隣マンションの屋上などに鈴なりになった。祝勝会に備えて来場していた定宿の担当者は、ロッカールームで「(緊張で)胃が痛い」と腹を押さえた。 近鉄はストライク、ボールの判定に仰木彬監督だけでなく、中西太ヘッドコーチまで抗議に出てきた。得点すれば派手に喜んだ。高沢は「お前らだけで野球をやっているんじゃないぞ、というムードになりました」と自軍ベンチの変化を感じた。 近鉄ベンチで戦況を見守っていた栗橋茂は「うちのヤジがすごくてね。何かに取りつかれた感じというか…。俺が一番冷静だった」と異様さを認める。かつての4番はプロ15年目を迎え、徐々に出場機会が減っていた。 「若い村上(隆行)なんて、泣きながら声を張り上げていた。なぜ泣くのか、意味が分からん。何度も『やめとけ!』と言ったんだけどね」