足利義政の妻・日野富子“守銭奴の悪女”イメージを生んだ高利貸・投機などの利殖活動が応仁の乱後の京都復興を支えた事実【投資の日本史】
北条政子や淀殿と並んで「日本3大悪女」の1人に数えられる日野富子。室町幕府8代将軍の正妻として富子が関わった将軍後継問題は、京都を焼け野原にした「応仁の乱」を引き起こした要因の一つとされる。しかし、それは通説に過ぎない。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第7回は、日野富子の「京都復興の立役者」としての顔について解説する。 【表】日野富子の生涯と応仁の乱の関連年表
日本の歴史上では女性権力者の絶対数が少ない。将軍の正妻の中で、教科書に名前が載るレベルなのは北条政子(1157-1225年)と日野富子(1440-1496年)の2人くらいだろう。 北条政子は鎌倉幕府を開いた源頼朝の正妻にして、2代将軍・頼家と3代将軍・実朝の生母。一方の日野富子は室町幕府の8代将軍・足利義政の正妻にして9代将軍・義尚の生母だが、「尼将軍」の異名で呼ばれ、烈女と称えられることもある政子に対し、ひたすら蓄財に励んだ富子には“私利私欲にまみれた悪女”のレッテルがつきまとう。 近年の歴史研究によれば、それは多分に偏見によるレッテルだと言えるが、根も葉もないわけではない。富子が将軍の妻として行なった政治の中身は、確かに都周辺の庶民から怨まれるのに十分な理由を持った。しかし、その責任は本来、足利義政が負うべきもの。なぜ、日野富子は蓄財に励むだけではなく、歴史の表舞台に立ち、政務を取り仕切ることになったのか。
「政務への関心とやる気」を失った8代将軍・足利義政
室町幕府の足利将軍は、江戸幕府の徳川将軍と同じく15代まで続きながら、徳川将軍に比べると歴代の知名度が低く、歴史教科書における影も薄く感じられる。その原因を当時の時代背景に求めるなら、「守護大名の自立性の強さ」及び「将軍の財政基盤の弱さ」が指摘できるだろう。 徳川将軍家の直轄地が初期には240万石、最盛期には460万石に及んだのに対し、足利将軍家の直轄地は全国に200か所を数えながら、一時的なものがほとんどで、将軍家の生計を長期にわたって支えた地は京都近郊の数か所に限られた。 当然ながら、これで立ち行くはずはなく、3代将軍・義満の代には新たな財源確保が進められた。その結果、日明貿易から得られる収益、各国に課す臨時税の「段銭」、各守護に課す臨時分担金の「守護出銭」に加え、土倉(質屋)に課す「土倉役」と酒造業者に課す「酒屋役」が恒常的な税として定着することとなった。 しかし、金貸しと同義語の土倉(質屋)が好景気になるということは、債務者の数が多く、その債務が多額に及ぶことの証左でもある。そのような社会が健全であるはずはなく、債務者が団結して行動を起こす恐れが十分にあった。事実、嘉吉元年(1441年)8月には、京都周辺の住民が債務の破棄(質物の返還、借用書の破棄)を求めて質屋を襲撃する一揆が勃発した。 本来ならば武力鎮圧を試みるところ、このときは幕閣の足並みが揃わなかったため、9月12日、幕府は一戦も交えることなく、山城国(現・京都府の南半部)全住民を対象とした徳政令を発布した。 徳政とは「仁徳ある政治」を指す言葉で、嘉吉元年の徳政令は室町幕府が発布した最初の例。前例ができてしまうと2度目からはハードルが下がり、以降、徳政令が発布されるたび、土倉役から得られる税収が減り、幕府は新たな財源を開拓する必要に迫られた。 8代将軍の足利義政(在職1449~1473年)は就任当初こそやる気に溢れ、専制願望さえ隠そうとしなかったが、重臣たちとの力関係を理解するに伴い、政務への関心とやる気を失っていた。応仁・文明の乱(1467~1477年)の勃発と泥沼化を前にしても、なす術を知らないどころか、完全に傍観を決め込んだ。 将軍職を嫡男の義尚に譲り、自分はやりたいことだけやる。そうは言っても、将軍としての政務は若輩の義尚の手には負えないことから、富子の兄・勝光が執務に当たった。その勝光が文明8年(1476年)に亡くなってからは、好むと好まざるに関係なく、富子が矢面に立つしかなくなったようだ。
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