足利義政の妻・日野富子“守銭奴の悪女”イメージを生んだ高利貸・投機などの利殖活動が応仁の乱後の京都復興を支えた事実【投資の日本史】
戦乱で疲弊した京都にとって日野富子は大恩人だった
実際問題として、応仁・文明の乱後の京都にとって、富子は大恩人だった。乱の当事者である畠山義就の撤退が金銭的な事情で遅れていたとき、気前よく1000貫文もの貸し付けをしたのが富子で、これにより京都ではようやく市街の復興を本格化させることができた。 また、資金不足から内裏の修繕もままならず、天皇の即位式さえ実行できずにいた朝廷に多額の献金を行い、朝廷の顔を立ててくれたのも富子なら、乱の開始から3年で洛中洛外の神社仏閣がほとんど灰燼に帰し、自力での復興は絶望的と思われた状況下、私財を投じ、できる限りの援助をしてくれたのも富子だった。 戦乱で疲弊した京都にとって富子は掛け値なしの救いの神。富子という篤志家がいなければ、京都の復興は大幅に遅れていたはずだ。手段はどうあれ、復興の原資となった資金は富子が貯め込んだものに違いなく、富子の投資による受益者は朝廷と幕府、大小の寺社だけでなく、一般住民を含めた京都全体と言うことができよう。 呉座前掲書は〈富子は私利私欲のためだけに金儲けに走ったのではなく、富子の莫大な富が傾きかけた幕府財政を支えたという一面もあった〉とするが、まさしくその通り。富子が行動を起こさなければ、幕府と朝廷はどうなっていたかわからない。曲がりなりにも京とその周辺の秩序を回復できたからこそ、幕府と朝廷の面子は何とか保たれ、京都はその後も政治の中心であり続けた。 戦国時代が本格化してからも、地方の有力大名が上洛に拘り、京都とのつながりを断たずにいたのは、まだ利用価値があると判断されたから。応仁・文明の乱を終わらせ、京都全体を復興させただけでなく、京都の権威と役割を朽ちさせなかったことも、富子による投資のリターンに数えてよいだろう。 【プロフィール】 島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。
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