足利義政の妻・日野富子“守銭奴の悪女”イメージを生んだ高利貸・投機などの利殖活動が応仁の乱後の京都復興を支えた事実【投資の日本史】
なぜ、日野富子は応仁の乱の「悪人」に仕立てられたのか
富子の時代、京の市中の大半は前述した「応仁・文明の乱」の戦禍により灰燼と化したが、そもそもこの戦乱は三管の1家である畠山家の相続争いに端を発している。 三管の「管」は将軍の補佐役にして室町幕府ナンバー2の「管領職」を指す言葉で、足利一門の斯波・細川・畠山の3家が交替で務めていた。野心ある者はこの3家と姻戚関係を結んでいたから、畠山家の中でも誰が当主になるかは大きな問題である。ひとたび武力衝突が起きれば、畠山家内の家督争いで済むはずはなく、事実、将軍家や全国の大名を巻き込む大乱と化した。 従来、応仁・文明の乱の原因のひとつとして、将軍家内の後継者争いが挙げられ、富子を元凶とする説が唱えられていた。が、中世史を専門とする呉座勇一(国際日本文化研究センター助教)は、著書『陰謀の日本中世史』(角川新書)の中で、そうした説は1520年頃に成立した軍記物『応仁記』に起因する虚構であると指摘。〈虚構を成立させるために〉『応仁記』は日野富子らに〈濡れ衣を着せた〉としている。 その動機は戦乱の終息にあったようだ。11年に及んだ応仁・文明の乱は、敵と味方が入り乱れながら、収束に向かっている。戦乱当事者の中でも〈トップ同士は政治的な利害関係を重視し、「昨日の敵は今日の友人」と割り切れる〉が、それでは納得できない家臣たちを説得するために、『応仁記』では〈富子をスケープゴート〉にしたとの見解を呉座前掲書は示している。 たしかに、儒学の影響の強い日本史の性格上、女性権力者に全責任を負わせる説明は衆人の納得を得やすく、蓄財に狂奔した富子は当時からイメージが悪かった。それに加え、富子自身は明応5年(1496年)に亡くなり、(『応仁記』が成立した)1520年頃には富子のために声を上げる親族もすべて故人となっていたから、富子をいくらでも悪人に仕立てることが可能だった。死人に口なしの典型例でもある。
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