藤原妍子は若い貴族を集めて夜中まで…… 18歳年上の夫に愛されず家族からも疎まれた孤独な姫の逃げ場
■華やかなサロン、派手な衣装、連日の宴会……妍子の宮中生活 藤原道長の次女・妍子が誕生したのは、正暦5年(994)春のこと。母は正室の源倫子だった。姉妹で一番の美しく、さらに和歌も巧みという才色兼備な姫君だったが、その生涯をみると孤独がつきまとう。 寛弘元年(1004)、正四位下に叙されて尚侍に任じられると、同年従三位に位があがる。そして、寛弘7年(1010)に居貞親王(後の三条天皇)のもとに入内した。道長は長女・彰子を一条天皇に入内させ、既に敦成親王(後の後一条天皇)も誕生していたが、念には念をということで、当時東宮の座にいた居貞親王にも娘を嫁がせることにしたのである。 この時妍子は17歳、居貞親王は35歳、18歳差の夫婦となった。ちなみに居貞親王の母・超子は道長の同母姉であるため、この2人はいとこの関係でもある。18歳差、しかも居貞親王にはこの時点で既に愛妻である藤原娍子との間に4人の男子と2人の女子、計6人の子がいた。長男・敦明親王は妍子と同い年である。 妍子は派手好みといわれているが、実際調度品や衣装はとことん華やかだったらしい。『栄花物語』はたびたび妍子のサロンがどれほど豪華絢爛な場であったかということについて触れている。その上、道長は妍子のもとに仕える女房をどんどん増やした。しかも太政大臣・藤原為光の娘や大蔵卿・藤原正光の娘、さらに実兄・藤原道隆の娘など、高貴な出自の姫を多く女房として娘に仕えさせている。 ところがその派手好きは家族からあまりよく思われていなかったらしく、妍子自身や女房たちの衣装が華美すぎることについて、兄である頼通から苦言を呈されたこともあったらしい。 寛弘8年(1011)、一条天皇からの譲位をうけて、居貞親王は三条天皇として即位。翌寛弘9年(1012)に道長は妍子を中宮にたてた。しかしその強引さに辟易した三条天皇は、これに対抗して娍子を皇后の位につけ、二后並立状態にもちこんだ。当然道長はこれに怒りを露わにしたという。このように道長と三条天皇の関係は悪化の一途を辿っており、妍子としても居心地が悪かったことは想像に難くない。 そんな妍子が懐妊したと聞いた時、道長は皇子が誕生すれば三条天皇との関係改善も見込めると多大な期待を寄せた。そのため、長和2年(1013)に妍子が禎子内親王を産むと、皇子でなかったことに落胆し、あからさまに不満な様子だったと『小右記』にも記されている。 当時では親子ほどの年齢差がある上に既に愛妻・子がいる夫、権力を巡る夫と父の対立、皇子を産まなかったために不満を抱いた父……。それだけでも苦しいのに、彼女の姉・彰子は(一条天皇と定子の愛という壁はあったにせよ)一条天皇の皇子を産み、その子は東宮の座にいる。この先も宮中、そして実家への貢献という意味でも存在感を増す姉を見て、彼女は何を思ったのだろうか。 そうした孤独感や鬱屈とした日々から逃げたいという思いもあったのか、妍子は贅沢な宴会を頻繁に催していた。『小右記』では、彰子が妍子(をはじめとする道長一門)の度重なる宴の開催によって公卿たちが負担を強いられていること等を批判した件について絶賛し、「賢后」と讃えている。そのほか、妍子が連日若い貴族らを集めて管弦の宴を夜中まで楽しんでいる件への批判も見受けられる。 妍子はその後も皇子を産むことはなく、三条天皇も道長の圧力に屈する形で譲位。妍子は禎子内親王の養育に力を注ぎ、万寿4年(1027)に娘が東宮・敦良親王のもとに入内するのを見届けて、34歳という若さでこの世を去った。父・道長は娘へのこれまでの仕打ちを後悔してのことか、「年老いた父と母を残してどこへ行かれるのか。私たちも御供させてほしい」と泣いて縋ったという。
歴史人編集部