考古学発祥の地、大田原市湯津上 水戸黄門が発掘した古墳 栃木県が330年ぶりに調査 味・旅・遊
「日本考古学発祥の地」とされる栃木県北部の大田原市湯津上(ゆづかみ)地区。日本最初の学術的な古墳調査が行われたからだという。調査を指示したのは時代劇でも有名な水戸黄門こと、水戸藩2代藩主の徳川光圀(みつくに)。この地でなぜ、古墳調査が行われたのか。古代ロマンにあふれた湯津上の地を訪ねた。 【写真】下侍塚古墳。周囲には侍塚古墳群が点在する 大田原市南東、那珂川沿いに広がる湯津上地区。光圀の命で調査が行われた古墳は2基で、上侍(かみさむらい)塚古墳(墳長114メートル)と下侍(したさむらい)塚古墳(同84メートル)。ともに前方後方墳(四角形と台形を組み合わせた古墳)で国の指定史跡となっている。 ■「那須国」に点在 周囲を田んぼに囲まれた下侍塚古墳の周辺には、小高く土が盛られたような小規模な古墳が点在している。侍塚古墳群といい前方後円墳や円墳など計8基。古墳群を回遊しながらこの地が「那須国」といわれていた古代(古墳時代)、周辺には多くの人々が暮らし、にぎわい、文化を育んできたに違いないと想像が膨らんだ。 下侍塚古墳から歩いて10分ほどの光圀ゆかりの神社「笠石神社」を訪ねると、19代目宮司の伊藤克夫さん(75)が「那須国」の歴史や光圀と古墳との関わりなどについて、丁寧に説明してくれた。 「古代、今の栃木県で最も栄えていたのが、『那須国』でした」と佐藤さん。「土地が肥沃(ひよく)で水も豊か。日本で初めて砂金も採れた」と聞いて驚いた。砂金は奈良東大寺の大仏の鍍金(めっき)に使われたという。 また、光圀が命じた古墳の発掘調査は旅の僧が湯津上で古碑(国宝の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ))を見つけたことに始まる。その話を耳にした水戸藩領だった那須郡小口村(現栃木県那珂川町)の庄屋が現地を訪れ、碑文を読み「那須記」という書物にまとめ、領内を巡行中の光圀に献上した。 佐藤さんによると、古碑は大和政権で任命された地方官にあたる元「那須国造」の「那須直韋提(なすのあたいいで)」という人物を顕彰したものだった。光圀は「韋堤」の墓を見つけるよう命じた。 ■助さんに命じて