「男たちよ、乳房だけを愛でるな」 農村女性の生きづらさを詩に込めて
一人息子に死なれた母の思い引き継ぐ
小原さんの近所には、「南無阿弥陀仏」と念仏が刻まれた墓があります。高橋セキという女性が、戦後の貧しい生活の中で、一人息子を思って建てた墓です。セキが女手ひとつで育てた千三(せんぞう)は、太平洋戦争中、ニューギニアで戦死しました。23歳でした。セキは「自分が死んだ後も、戦争と戦死者が決して忘れられないように」と願い、家名ではなく、念仏を刻んだ墓を人通りの多い場所に立てたのです。 セキは66年に死去しています。小原さんはセキと面識はなかったものの、この墓の成り立ちを知り、追悼を始めたのです。麗ら舎が始まった85年から毎年、千三の命日周辺に「千三忌」を実施しています。
地域の女性の思い、語り継ぐ場に
やがて麗ら舎は、幾世代もの女性たちの反戦の願いを引き継ぐ場になりました。「七度(しぢど)の飢饉(けがづ)に あうたてな 一度(えづど)の戦(えくさ)に あうなてよ」。麗ら舎に掲げられた書は、明治生まれのハギという地元女性の言葉です。 ハギの夫は日清戦争で、夫の弟も日露戦争で戦死しました。婚家に残されたハギと義理の妹は、義父から性暴力を受けて義父の子供を妊娠したのです。夫が出征中の女性に対する性暴力は、「粟まき」と言われました。粟は稲作の終わった後にまく作物からきています。 女性は男の所有物でしかない。だから「主」がいない女性を襲ってもいい。そういう女性を妊娠させることは、むしろ富国強兵の一環である――。そんな恐ろしい女性蔑視が浮かび上がります。被害にあった女性たちの多くは口をつぐみ、その無念は闇に葬りさられてきました。ですが、ハギはそれを「この世の地獄」だと断言し、「凶作に7度襲われる方が、1度の戦争よりましだ」という言葉と共に体験を後世に残したのです。 こうした女性たちの無念を受け継ぐ小原さんの決意が、麗ら舎の会報「別冊おなご」の第1号に記されています。 小原さんは「男たちよ、乳房だけを愛でるな」という詩で、男性に一人の人間として女性と向き合え、という強烈なメッセージを発したのです。