「男たちよ、乳房だけを愛でるな」 農村女性の生きづらさを詩に込めて
「男たちよ、乳房だけを愛でるな」。40年前、こんな痛烈なタイトルの詩を発表した女性がいます。岩手県の内陸部、北上市で生まれ育った詩人、小原麗子さん(89)。結婚・出産へのプレッシャーが今よりもはるかに強かった時代に農村で生まれ育ち、「一人の人間として生きたい」と悩み苦しみながら独身を貫きました。かの地ではそんな小原さんの姿勢を慕う女性たちが共に学び、語らい、思いをつづるシスターフッドが続いています。 【画像でみる】「男たちよ、乳房だけを愛でるな」 農村女性の生きづらさを詩に込めて
姉の自死 意味を問い続ける
それは小原麗子さんが10歳の頃でした。終戦間近の1945年7月、小原さんの姉が命を絶ったのです。姉の夫は出征中で、姉は体調を崩して入院中でした。当時、農村では、嫁は「角のない牛」と言われるほど朝から晩まで酷使されていました。「誰よりも働かなくてはいけない嫁の身分で入院していたところに、『夫が戦死した』という噂をきいてしまった。姉は将来を悲観し、追い詰められたのでしょう」と小原さん。戦死のうわさは誤りで、姉の夫は戦後、妻への手土産を持って生還したのですが……。 姉の死は、幼い小原さんの心に大きな影響を与えました。 小原さんは、のちに「姉を追い詰めたのは、『病気』だったのでしょうか。『国の非常時に死んでゆくのは申し訳ない』と姉は遺書にしたためました。国と夫。姉は、男の体制に詫びたのか」とつづっています。姉の死の意味を問い続けることが、ジェンダーの視点から家族や社会のあり方を問う原動力になったのです。 誰よりも早く起きて一日中働き、誰よりも遅く寝る。それが当時の嫁のあるべき姿でした。囲炉裏を囲む家族団欒は、冷たい土間に身を置いてせっせと薪をくべる嫁の忍従があってこそ成り立っていたのです。小原さんは「農村の嫁の悲劇が生まれる原因は、多くの家族的な美しさの中にもある」と、家族の調和が女性の犠牲に支えられる矛盾を早くから指摘しました。
母への詩「嫁にいかない私をゆるして」
小原さんは「一人の人間として生きたい」と結婚しない決意をし、農協で働きながら詩作に励みます。「詩を作るより田を作れ」と言われても、実家の小さな書斎で書き続けたのです。 「おふくろは『なして嫁さいかねんだべ』と心配していた。素直に嫁さ行けば喜んだでしょうが……」と振り返ります。「ゆるして下さい がつちやあー」は縁談が舞い込み始めた10代後半で、母に向けて詠んだ詩です。 ◆◆◆ わたしが今 なにをし なにをすることによって 母をしあわせにしてやれるか わかつていても それが母にしてやれるわたしの唯一のもので あることをしつていても ゆるして下さい (中略) だのに わたしにひそむ血は “納得がいかぬ” “納得がいかぬ” と叫び たぎってくる (中略) 一人立出来る力もなく だからといって お嫁にいくことも否定しつつ さればといつて 職もなく 将来への予想は不安だけなのです 詩集「サワ・ひとりのおんなに」(1967年発行) ◆◆◆ 小原さんは数々の詩や文章を発表、仕事にも励みます。40代になると地元の農協で初となる女性の次長職を打診されました。しかし「自分一人だけを昇進させるのは納得がいかない。男性と同等に働いてきた多くの女性たちが正当に評価されないままでは引き受けられない」と固辞します。真の意味での男女平等を願ってのことでした。そして農協を49歳で早期退職して、一軒家を購入します。いまから約40年前のことです。 小原さんの名前をとって「麗(うら)ら舎」と呼ばれた家は、地元の女性たちが集まり、読書をして、語らう場になりました。「(集まる女性たちは)みんな家だと『嫁』だから大変な思いをしているけど、ここだと自由に話ができた」と小原さんは振り返ります。