日本サッカーのボーダレス化が生み出す課題
鈴木がゴールをマークした相手はクウェートとネパール、パレスチナで、ほとんどがフリーの状態だった。U‐21日本代表が黒星を喫したイラクとの予選リーグ、そして韓国との準々決勝では厳しいマークの前に何もできずに終わっている。類希なスピードと身体能力の高さを対人プレーの中で発揮し切れていないことは、アルビレックスでレギュラーをつかめず、3年間の通算で4ゴールにとどまっている結果が証明している。 つまり、天性の素質を開花させるか否かは最終的には本人の努力と自覚にかかっているわけであり、同じことがJ2で出場6試合、1ゴールに甘んじているオナイウにも当てはまる。今年の夏の移籍期間中には、横浜F・マリノスの将来を担うと期待されてきた21歳のMF熊谷アンドリューが、J2湘南ベルマーレへ期限付き移籍したことが少なからずサッカー界を驚かせた。 熊谷もまたスリランカ人の父親と日本人の母親の間に生まれた二重国籍選手で、小学生からマリノスの育成組織一筋でプレー。年代別の日本代表にも選出され続け、2012年にはトップチームに昇格して10試合に出場。順風満帆なサッカー人生はしかし、途中出場のみの4試合に終わった2013年に暗転し、今シーズンの前半戦はリザーブに2度名前を連ねただけでベンチ外の日々が続いた。 夏の移籍ウインドーが開くのと同時に自ら期限付き移籍をマリノスに要望した熊谷は、いくつかのオファーの中から自分の意思でベルマーレ入りを決めた。その理由は「走る」ということをベースに置いたベルマーレのスタイルにあったと、充実した表情を浮かべながら打ち明けてくれた。 「走ることは自分の一番苦手な部分ですし、やらなきゃいけないとずっと感じてきた。練習中の厳しさや集中力の高さといったものは、マリノスでは経験できなかったこと。加入初日のセットプレーの練習なんてほとんど格闘技状態で、自分はやっていけるのかと思ったほどですから(笑)。いまは慣れてきたし、自分自身が変わっている、試合だけじゃなくて日々の練習が刺激となって成長につながっていると実感しています」。 リオデジャネイロオリンピックを目指す世代でもある熊谷だが、走る意識が希薄で運動量が少ない点が伸び悩みの原因となっていた。オファーを出したベルマーレ関係者もこう語っていたほどだ。 「あれだけの素晴らしい素質を持った選手がもっと走れるようになれば、本当にとてつもない存在になる。補強という意味もあったけれども、日本サッカー界に生きる者として、ウチでの経験から何かを得て欲しいという期待感のほうが大きかったと思います」。 ともに36歳の中村俊輔や中澤佑二をはじめとするベテランが主軸を占めるマリノスでは、必然的に練習量も強度も軽くならざるを得ない。個人練習や居残り練習などで補うにしても限界があることを痛感したからこそ、熊谷も将来に対して危機感を募らせたのだろう。自身の立ち位置を冷静に分析し、厳しい環境を求めて慣れ親しんだマリノスから飛び出したわけだ。