日本サッカーのボーダレス化が生み出す課題
そもそも、こうした二重国籍選手が注目されることになったきっかけは、市立船橋高校から2004年にジュビロ磐田に加入したカレン・ロバート(タイ・スパンブリーFC)となるだろうか。アイルランド人の父親と日本人の母親を持つロバートは日本国籍を選択し、2005年のワールドユース選手権(現FIFA・U‐20ワールドカップ)に出場。FWあるいは攻撃的MFとして、豊富な運動量とスピードでチームの主力を務めた。 それまでの日本サッカー界は「助っ人」として来日した外国人選手が日本へ帰化し、日本代表としても活躍するケースがほとんどを占めていた。先駆け的な存在は日本サッカーリーグ(当時)初の外国籍選手として1967年6月にヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)に加入したネルソン吉村で、3年後の1970年12月に日本への帰化を果たした後は吉村大志郎として日本代表戦に46試合出場した。 その後の歴史はあらためて説明するまでもないだろう。いずれもブラジルから帰化した与那城ジョージ(現J3ブラウブリッツ秋田監督)、ラモス瑠偉(現FC岐阜監督)が1980年代中盤から1990年代前半の日本サッカー界を牽引し、呂比須ワグナー(現ブラジル・クリシウーマ監督)、三都主アレサンドロ(FC岐阜)、田中マルクス闘莉王(名古屋グランパス)は日本人としてワールドカップ出場を果たした。 2007年2月には在日韓国人4世として日本で生まれ育ったFW李忠成(浦和レッズ)が日本へ帰化し、2008年の北京オリンピックやアルベルト・ザッケローニ前日本代表監督の下で優勝したアジアカップに出場している。日本で生まれ育ち、両親の帰化とともに日本国籍を取得したFWハーフナー・マイク(コルドバ)、DFハーフナー・ニッキ(名古屋グランパス)の例もある。 しかしながら、日本への帰化は「継続した在留資格で5年以上、日本に住んでいること」などの申請条件が厳格なこともあり、なかなか決断に踏み切れない選手が少なくない。千葉国際高校から加入したルーキーで、爆発的なスピードと多彩なテクニックを武器に6ゴールをあげている鹿島アントラーズのMFカイオは来日してまだ4年目。つまり、来シーズンを終えなければ「日本代表に呼ばれればその意思はある」と前向きなコメントを残している帰化への申請資格を得ることができない。 そうした事情もあって、日本への帰化よりも二重国籍選手によりスポットライトが当てられるようになった傾向がいま現在につながっていると言っていい。もっとも、移民政策を採用しない歴史を歩んできた日本においては、両親のどちらかが外国籍という子どもたちは日本人とは異なって映る外見を含めて、いじめの対象になりやすい社会的背景を抱えてきた。