渡哲也さん死去 一流の生き方感じさせた昭和のスターまた一人旅立つ
俳優の渡哲也さんが10日に肺炎で死去していたことがわかった。78歳だった。14日、石原プロモーションが発表した。葬儀は同日、近親者のみで密葬が営まれたという。また一人、昭和が生んだ大スターが旅立った。
宍戸錠さんの弟役で銀幕デビュー
石原プロは公式ツイッターで「弊社 渡哲也(本名:渡瀬道彦)が長きにわたり病との闘いの末 去る令和2年8月10日午後6時30分に肺炎のため享年79をもって都内の病院にて旅立ちました」と発表。お別れ会・偲ぶ会等の実施に関しては「故人の意向により執り行いません。何卒、故人の遺志をご理解いただけますようお願いいたします。皆様のお心の中にて故人への祈りを捧げていただけますことを心よりお願い申し上げます」と説明している。 渡さんは1941年兵庫県淡路島の出身で、出生地は島根県能義郡。青山学院大学に在学中は空手道部に在籍。空手二段で柔道初段と、武道の心得があった。大学へ通うため上京した渡さんは実弟の渡瀬恒彦さん(享年72)と新宿区内に住んだが、在学中に日活が浅丘ルリ子主演映画の相手役を募集した際、渡瀬さんらが内緒で渡さんの写真を日活に送り応募。結局、相手役には伊丹十三さんが選ばれたが、日活撮影所を訪れた際スカウトを受け、1964年日活入り。翌65年に宍戸錠さん(享年86)とW主演を務めた映画「あばれ騎士道」で銀幕デビューを飾った。宍戸さん演じるジョウの弟・哲也というオートレーサーに扮し、父の死をめぐって密輸組織と対決するという役どころだった。また、早くも同年にあこがれの石原裕次郎さん(享年52)と共演を果たし、さらに「純愛のブルース」で歌手デビューもしている。66年には吉永小百合と初共演、以後着々と人気を獲得し日活のスターの一角を担う存在となっていった。
石原プロ再建に多大な貢献
ところが60年代はテレビの台頭で映画産業が斜陽化したタイミングでもあった。石原プロも負債を抱え存続が危ぶまれる窮地を迎えたが、会社再建と経営安定を図るため、映画をこよなく愛する裕次郎さん自身もテレビドラマへ本格進出すべく路線転換。「太陽にほえろ!」などの大ヒットで再建に成功した。1971年に同プロ入りした渡さんは、副社長を務めるとともに役者としても角刈りにサングラスで「大都会」シリーズや「西部警察」といった刑事ドラマを大いに盛り上げ、再建に貢献した。1987年7月に裕次郎さんが死去すると、10月には渡さんが2代目社長として同プロの舵を取ることになった。 2005年には紫綬褒章を受章。2011年になると、健康上の理由や社長在籍期間が裕次郎さんと同じ24年となったことなどから社長を退任。その後2015年には急性心筋梗塞で入院しカテーテル手術を受けた。2017年には石原プロの経営陣に復帰し、「相談取締役」として相談役と取締役を兼任。最近は呼吸器系疾患で自宅療養していたという。