クリント・イーストウッドはなぜトランプを支持したか? 高倉健の映画と共通する「孤独と哀愁」
アメリカの歴史を流れる武の精神
西部劇映画で見られるように、アメリカは開拓の国であり、その開拓者は農業、鉱業、牧畜業、酒場経営、あるいは保安官などの職につき、自分の銃で身を守ることが当たり前であった。 南北戦争の結果、北部を中心に工業化が進み、知識階級の力が増大することによって武的人間が圧迫されていく。二つの世界大戦では、武的人間に活躍の場が与えられ、勝利することによって国家的英雄として讃えられたが、ベトナム戦争やアフガン戦争では、アメリカは事実上敗北し、帰還兵は英雄とは逆の扱いを受け、精神的な傷を抱える者が多かった。 そしてその後のデジタル社会の到来によって、ますます知的人間の優位が進み(デジタル強者が本当に知的であるかは疑問だが)、武的人間は社会の片隅に追いやられていく。その、時代に取り残され追いやられる孤独が、トランプ支持層に凝固する。 西部劇の時代からデジタルの時代まで、アメリカという大きな国の都市化は、他の国にはない質量と加速度をもち、そのルサンチマンにも力(=質量×加速度)とエネルギー(=力×距離)がある。日本は近代化の過程で一種の階級転換があり「廃刀令」によって武的階級が整理されたのだが、アメリカの近代化には「廃刀令」がなく、銃社会が今日にまで続いているのだ。 イーストウッド演じるところのハリー・キャラハン(『ダーティハリー』シリーズの主人公)の銃弾にはそういった、アメリカにおける武的人間の孤独な魂が込められている。
武的に強者、法的に弱者
クリント・イーストウッドは高倉健に似ている。 高倉も、若いときはあまり表情のない二流の俳優であった。しかし任侠映画で独特の魅力を発揮し、体制と闘う全共闘世代の共感を得た。老いてからは、前科者だが誠実な人間という役まわりを演じた。吹雪の中に一人立っているだけでドラマが生まれるような役者である。健さんの演じる花田秀次郎(『昭和残俠伝・唐獅子牡丹』シリーズの主人公)の長ドスには、近代的管理化へと向かう激動の時代を生きた侠客の魂が込められているのだ。 「クリント精神」と「健さん精神」はそういった点で共通する。どちらも武的には強者であるが法的には弱者である。世の理不尽に苦しむ人を見て見ないふりはできず、がまんの末に断固として闘い、物理的には勝つのだが、社会的には敗北する。そして一切の言い訳をしない。そこに深い「孤独と哀愁」が漂う。つまり時代に取り残され追いやられる武的人間の孤独と哀愁は、アメリカだけではなく、日本にもあり、大なり小なり、どの国にもあるものなのだ。 当たり前のことだが社会的な規律(法律)と正義は必ずしも一致しない。正義には「法律的正義」とともに「思想的正義」と「人間的正義」があるのではないか。宗教家や思想家や革命家は思想的正義を志向するが、武的人間は人間的正義を志向する傾向がある。そしてその正義を貫いたとき、社会的(法的)には敗者となっても精神的には勝者となるのだ。 クリント・イーストウッドは老いるほどその魅力が輝きを増す。巷には、老いてもまだ元気という本があふれているが、彼はむしろ、敗北と衰退の中に美しさを見いだそうとしているように思える。 これまで書いてきたように、人間は都市化する動物である、というのが僕の基本認識である。都市化とは管理化でもある。社会は日常的に管理化に向かう。しかしそのままではない。安定した社会も常にその背景に武の保障を必要とし、時として武の力が前面に出なければならない場合もある。 元日をおそった能登半島地震の被害は大きい。自然災害の多い日本では、治安や防衛だけでなく、災害救助のためにも武の力を必要としている。防衛予算は急速に肥大しているが、むしろこちらを強化すべきではないか。