クリント・イーストウッドはなぜトランプを支持したか? 高倉健の映画と共通する「孤独と哀愁」
映画に表現される「クリント精神」
僕らが子供から大人になりかけるころ、クリント・イーストウッドは『ローハイド』という、牛を移動させる集団を主役としたテレビドラマに出演していた。まさにカウボーイの役であるが、あまり上手いとはいえない二流の役者という評価だった。その後もマカロニウエスタンやテレビドラマの刑事物に出演していたが、いつも同じような暴力的アクションが売り物の役まわりで、決して名優とはいえなかった。しかし歳を重ねるにつれ、そのワンパターンの演技が重厚さを増して独特の魅力を放つようになる。 彼が演じるのは、カウボーイ、ガンマン、警官、軍人といった武的な役柄だが、正義の味方が悪人をやっつけてハッピーエンドというのではなく、強者ではあるが管理社会になじめない性格で、常に孤独と哀愁が漂っている。老いてからは、そういった武的な職業をリタイアした固陋な老人として、妻には離婚され、娘には愛想を尽かされながらも、これから闘おうとする若者に寄り添う役を演じることが多くなる。近年はむしろ監督業に力を入れているが、深みのある作品が多い。 一騎ゆっくりと荒野を行くだけでドラマが生まれるような役者であり、今も独り屹立する映画人だ。 また1980年代にはカリフォルニア州カーメルの市長を務めるなど、政治活動にも無縁ではない。トランプを支持したとき「軟弱な時代になっている」と発言し、人種差別的な発言をするトランプへの攻撃に対して「そんなくだらないことは放っておくべきだ」と発言している。ここで扱いたいのはイーストウッド自身の人格というより、映画に表現される「クリント精神」であるが、そういった彼の政治的発言の中にもその精神が現れている。
白人同士でも存在する歴史的民族的な差別
8年前、イーストウッドがトランプを支持した理由として、バラク・オバマ元大統領とヒラリー・クリントン元国務長官に対する批判があったようだ。オバマは黒人、ヒラリーは女性、どちらも社会的マイノリティとして平等の権利を主張する位置にある。そしてどちらも弁護士である。知的エリート、法的エリートとして、マイノリティの権利を牽引する立場である。 一方、イーストウッドはアイルランド系(北部ヨーロッパのいくつかの民族の血を引いているようだが、アイデンティティーとしてはアイリッシュを自認している)である。アイルランド人は人種的にもイギリス人に近く、英語を母国語とするのであるが、カトリックであり、アメリカ社会の上層部を形成するいわゆるWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)からは外れている。しかもついこのあいだまで、北アイルランドを支配するイギリス人との紛争が続いてきた。 アメリカは移民の国であるが、特に19世紀から20世紀初頭にかけて、大量のアイルランド人とドイツ人とユダヤ人の入国があり、比較的少数のイタリア人の入国があった。飢饉や迫害をのがれてきた彼らは、早くから入植していた階級から差別される傾向にあり、特にアイルランド人は「白い黒人」と呼ばれるほどで、体力頼みの武的な職業につく者が多かった。 西部劇映画では、アイルランド系の騎兵隊と先住民(インディアン)が戦い、ギャング映画ではアイルランド系の警官とイタリア系のギャング団(マフィア)が戦うという構図である。また9・11同時多発テロでは、ワールドトレードセンタービルに金融企業のオフィスが多かったことから、金融業のユダヤ系と消防団のアイルランド系が多く犠牲となった。 アメリカ社会において、彼ら後発の移民は、常に戦うことを余儀なくされてきたのである。日本人は、アメリカの人種差別といえば、白人の有色人種に対するものと受け取りがちだが、実は同じ白人同士でも歴史的民族的な差別が存在するのだ。しかも差別される人々がマイノリティとして権利を主張することはできない。 つまり「クリント精神」には、知的エリートに対する「武的人間」のルサンチマンに、アイルランド人特有の歴史的民族的ルサンチマンが重なっているのだ。アメリカの文化現象には、そういった複雑な人種問題、宗教問題、歴史問題(特に移民時期の違いや南北戦争)が重層的に絡んでいる。 トランプが簡単には支持を失わない理由もそこ(端的にいえば白人のルサンチマン)にある。