試合中に起きた異変「どうにもならなくなった」 元中日HR王が見舞われた“悲劇”
銚子商1年秋に背番号1も千葉大会初戦で右肘に異変…試合も敗退
1974年夏の甲子園は8月9日に開幕した。銚子商はPL学園(大阪)、中京商(三岐)、平安(京都)、前橋工(北関東)を撃破。防府商(西中国)との決勝戦に7-0で勝ち、初優勝を飾ったのは8月19日だった。「勝ったよ、また勝ったよ。まーた勝っちゃったよってね。だからずーっと帰ってこないわけじゃん。暇だった覚えもある。まぁ、甲子園に行っても手伝いだったし、そこまで行きたいとも思っていなかったけどね」。 新チームになって宇野氏は投手として頭角を現した。「(1年)秋の県大会の時には背番号1をもらった」。強豪校のエースに抜擢。甲子園を沸かせた土屋の“後釜”に指名されたのだから、いかに期待されていたかわかるところだろう。1学年上に篠塚がいたチームは十分、翌年の選抜出場を狙えるレベル。宇野氏も当然、力が入った。しかし、ここで邪魔したのが右肘痛だった。しかも秋季千葉大会初戦の試合中に「どうにもならなくなった」という。 「その日は練習の時から、あれ、何か肘が痛いなとは思っていたんだよね。まぁ何とかなるだろと思って先発して3回をパーフェクトに抑えたんだけど、肘が曲がったまま動かせなくなって……。これでは投げても迷惑をかけちゃうと思って交代したんだけど、試合にも負けちゃったんだよねぇ」。怪我とともに翌春の選抜大会出場も絶たれ、エースの座も失った。「しばらく投げることも打つこともできなかった。2、3か月はただ走るだけだったんだよね」。 結果的に、宇野氏はこの怪我がきっかけで内野手転向となる。「いろんな治療をしたよ。最終的には時が、って感じで治ったんだけど、今の感覚ならたぶんトミー・ジョンみたいな手術をしなきゃいけなかったんじゃないかな。(右肘痛発症の)1年秋のあの試合、千葉寺球場だったのは覚えている。あのままピッチャーだったら、どういう人生だったんだろうね」と当時を思い浮かべながら話した。
山口真司 / Shinji Yamaguchi