試合中に起きた異変「どうにもならなくなった」 元中日HR王が見舞われた“悲劇”
元中日、ロッテの宇野勝氏は名門・銚子商に進学…当初は投手だった
1984年にセ・リーグ本塁打王に輝くなど、中日、ロッテで通算338本塁打を放った宇野勝氏(野球評論家)は1974年に銚子商に進学。投手として野球部に入部した。最初は球拾いとランニングでしごかれる日々。その年は夏の甲子園で優勝したが、足の怪我でスタンド応援部隊にも入れなかった。それが、新チームではいきなり背番号「1」をつかむ急成長。だが、その後に試練が待っていた。1年秋の千葉大会初戦で右肘に異変が生じ、投球不能状態に陥った。 【動画】「危険すぎる」 両軍が一触即発状態になった“負傷”の瞬間 甲子園に行きたい一心で銚子商に入学した宇野氏はまず、同期の野球部員数に驚いたそうだ。「最初60人くらい入ったと思う。当時は甲子園の常連校だったけど、そんなふうだとは知らなかったから、もうびっくりしたわけよ。こんなに入るんだってね」。1年生は全員球拾いからスタート。「あとはランニングのしごきだよね。それにどれだけ耐えられるかってことでね。で、1か月くらいしたら半分の30人くらいになって、やっていくうちにどんどん減っていくんだよ」。 すさまじい量を走らされ「走るのと球拾いだけだからつまらないわけですよ。それでやめる人も多かったかな」。宇野氏は耐え抜いた。「1学年が最終的には、いつも14~15人になるんだよね」。その年の銚子商は1年生でベンチ入りなんてとんでもないほど、レベルも高かった。3年生のエース右腕・土屋正勝投手(元中日、ロッテ)、2年生で「4番・三塁」を担う篠塚利夫内野手(元巨人)らを擁して、甲子園に春夏連続出場。夏は全国制覇を飾った。 歓喜の瞬間を宇野氏は「家のテレビで見ていたと思う」と話す。「1年生もほとんどが甲子園に行っていたよ。(スタンドでの)応援もそうだけど、球拾いとか(練習の)手伝いもあるからね。でも俺は行かなかった。足の甲だったかな、怪我していたんでね。『お前は行っても何にもならんな』と言われて残った。(野球部で)行かなかったのは3~4人くらい。その間は練習もあまりしていた記憶がない。ちょこっとやって終わりみたいな感じだったんじゃないかな」。