今年で317年、宝永からマグマを溜め続けた富士山…次の大規模噴火は「これまでにないステージの始まり」となるか
ステージ初期の活発な活動
たとえば、延暦噴火と呼ばれる800~801年の噴火では、スコリアと火山灰によって富士山頂の東南東を通る東海道(足柄路と呼ばれる)が遮断されてしまった(図「延暦噴火による溶岩流の分布」)。このため、東海道は火山灰を避けて新たに南側の箱根路を開き、これが現在まで受け継がれている。 次に起きた大きな噴火の記録は、貞観噴火と呼ばれる864年の噴火である。富士山の北西の山麓で大規模な割れ目噴火が起きた事件である(図「9世紀以降の富士山から噴出した溶岩流」)。 このときには長さ6キロメートルにわたる長大な割れ目ができ、その上に火口がたくさんできた。ここから大量の溶岩が流出し、青木ヶ原溶岩と呼ばれる溶岩原となった。この溶岩は、当時の北麓にあった大きな湖(「剗海」と呼ばれていた)の中に流れ込み、その中央を陸化して湖を分断したのである。 最近、剗海を埋め立てた溶岩の坑井掘削が行われた。その結果、青木ヶ原溶岩のマグマの総量は1.4立方キロメートルであることが判明し、富士山の歴史時代の噴火では最も多量のマグマを噴出した噴火であったことが明らかとなった。
2ヵ所が同時に噴火した可能性も
その後、富士山の北麓では平安時代の10~11世紀にも割れ目噴火が起こり、溶岩が大量に流れ出した。937年に噴出した剣丸尾第一溶岩の最大のものは、20キロメートル下流の富士吉田市(山梨県)まで流れている。 実は11世紀の富士山では、山腹の2ヵ所が同時に噴火した可能性がある。山腹の北側の剣丸尾第1溶岩だけでなく、南側の「不動沢溶岩」(静岡県富士宮市)も、1015年ごろに噴火したことがわかっているのだ。 その後、流れ出た溶岩に残された当時の磁気の証拠(古地磁気と呼ばれる)を精密に測定したところ、地磁気の強さや磁場の方向が二つの溶岩で一致することが判明した。
現在のところ「ファイナル」の宝永噴火
さて、ステージ5の最後の活動は、これまでにもたびたび登場した1707年の宝永噴火である。 この噴火はそれまでの噴火様式とはまったく異なり、白い軽石と黒いスコリアと火山灰を大量に噴き上げるという際立った特徴がある。 宝永噴火で噴出したマグマは0.7立方キロメートルであり、新富士火山になってから噴出した降下火砕物の量としては最も多い。この結果、南東の山腹には直径約1キロメートルの巨大な火口をつくった。宝永火口である。