「早慶」「慶早」はどっちが正しいのか? ライバル関係はいつから? 第1回「早慶戦」はどっちが勝ったのか!?
11月9日、10日に予定されている東京六大学野球2024秋季リーグ戦の「早慶戦」。この早慶戦の歴史は古く、初回は明治時代まで遡る。早稲田のほうから野球の先輩である慶應大学野球部に丁寧に依頼をして始まったというが、決着はどのようなものだったのだろうか? ■早慶戦はいつから始まったのか? 「ライバル」という一言でまとめるには、あまりに早稲田大学と慶応大学の関係は複雑でした。たしかに明治時代から数えて100年以上もの間、春と秋の年2回、両校は野球というスポーツを通じて雌雄を決しています。 しかし、明治36年(1906年)の秋、慶應義塾野球部の合宿所に届いたのは、通説のように早稲田からの「挑戦状」ではなく、丁寧な依頼書でした。 それは「拝啓」で礼儀正しくはじまり、「弊部(=早大野球部)依然として不振」で、「選手皆幼稚」なので、野球の先輩である慶大野球部の「御教示にあずかり」たいとさえ書かれた手紙でした。 ■「野球(やきゅう)」と名付けたのは正岡子規ではない? アメリカ人教師の手で、日本にベースボールが紹介されたのが、明治5年(1872年)か、その翌年頃だといわれます。慶応大が野球を始めたのは、明治17年(1884年)でした。 また、「野球」という訳語が生まれたのは、明治22年(1889年)の喀血まで、「一高(現在の東大)」で熱心な野球青年だった正岡子規の翻訳だとよく語られるのですが、これについては史実と違うようですね。 正確には明治23年(1890年)、雅号(ペンネーム)として「野球(の・ぼーる)」を使ったのが野球選手引退後の正岡子規。これは子規の幼名のひとつが、升(のぼる)だったことにちなんでいます。それから約4年後、「野球(やきゅう)」をベースボールの和名として最初に使ったのが、明治の教育者として知られる中馬庚(ちゅうまん・かなえ)という人物でした。 ともかく、早大野球部が、野球の先輩である慶大に頼み、練習試合を取り付けた明治36年(1906年)にはすでに「野球」の語句が定着していたことがわかります。 ■第1回「早慶戦」の結果は…? 歴史初の早慶戦は、早大野球部員たちが現在の新宿区・早稲田から現在の港区・三田に新設されたばかりの網町グラウンドまで、徒歩でたどり着くところからはじまりまったそうです。しかも選手が履いているのは靴ではなく、下駄でした。すでに都内に市電は走っていましたが、早稲田と慶応を結ぶ路線はまだありませんでした。 注目すべきは、ただの練習試合なのに、試合開始前から3000人もの観客が押し寄せたという事実です。当日の試合も観客を湧かせるのに充分な熱戦でした。早大野球部が意外な善戦を見せ、7回には8-7で「先輩」慶大をリードする場面さえあったのです。 しかし、慶応が8回で4点入れて華麗に逆転。9回で早稲田は1点しか返すことができず、早稲田と慶応の初対決は9-11で、慶応野球部の勝利に終わりました。そして、その後の懇親パーティで、「これからは春と秋の年2回、早稲田と慶応の野球部が両校のグラウンドを交互に使って試合をしよう」という約束が結ばれています。 翌日の「時事新報」は「慶應義塾対早稲田大学野球試合」として、「早慶」ではなく、「慶早」の順で試合を振り返りましたが、これが現在にまでつづく早慶戦の歴史のはじまりだったのです。
堀江宏樹