『逃げ上手の若君』後醍醐天皇の野望と挫折 朝廷が鎌倉幕府を倒してまでやりたかったこととは?
TVアニメ『逃げ上手の若君』の7話が放送された。諏訪での初めての新年を迎える時行。全国の混乱は一応の小康状態となっているものの小競り合いは続き、諏訪の地にもまた新たな危機が迫っていた。小笠原貞宗も不穏な動きをみせているが、そもそも朝廷側のトップ・後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒後、何を為そうとしていたのだろうか? ■倒幕を果たした後醍醐天皇の政治改革 元弘3年(1333)6月、念願の「公武一統」を果たした後醍醐天皇は帰洛するなり政治改革に着手した。倒幕運動に関わって没収された土地をもとの所有者に返還する「旧領回復令」や鎌倉幕府方についた武士や貴族、さらに幕府が建立した寺院から所領を没収する「朝敵所領没収令」「寺院没収令」、また鎌倉幕府が結審した裁判の誤りを正して敗者を救済する「誤判再審令」などを次々に公布する。 本来死後に贈られる諱号(しごう)を生前に自ら定めた後醍醐天皇の理想は名前の由来となった醍醐天皇、そして時代の村上天皇による「延喜・天暦の治」だった。それにならって天皇親政を目指した後醍醐の政治姿勢は「綸旨万能」といわれる。 しかし土地の所有権を変更する際にもその都度天皇の綸旨が必要とされたため、所領安堵を求める領主の訴えや土地の争論に伴う訴訟は膨大な数にのぼった。実際に建武政権が発足した初年に後醍醐天皇が発給した綸旨はその後の年に比べて群を抜いて多い。増加の一途を辿る訴えを一人で捌くのは物理的に不可能であり、同じ所領を複数人に与えるような事態も出来した。有名な二条河原の落書にいう「謀綸旨」は綸旨が乱発されて裁定が二転三転する様子を痛烈に皮肉っている。 この混乱を収めるためにほどなく「雑訴決断所」が設置され、所領関係の裁判を担当するようになった。しかしこの雑書決断所も公家や武家に限らず様々な階層の人々が登用された大所帯であり「器用堪否の沙汰もなく、漏るる人なき(能力のあるなしを問わず、誰もかれもが採用される)決断所」と揶揄されるありさまだった。 そしてもう一つの問題は恩賞の不均衡である。莫大な所領を独占していた北条氏や御内人が倒れたことで多数の闕所が生まれたが、そのほとんどは武士ではなく後醍醐とその周辺の近臣に与えられた。六波羅探題攻略にあたって多大な貢献をした播磨国の武士・赤松則村でさえ一度与えられた播磨国の守護職を召し返され、安堵されたのは本領のみというありさまだった。土地と名誉を重んじる武士にとってこれは耐え難い屈辱である。 自らを古代の名君・醍醐天皇になぞらえて天皇親政を目指し「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし 」と精力的に政務にあたった後醍醐は確かに有能な人物だった。しかし延喜・天暦の治からすでに400年の時が流れており、社会のシステムはそのころとは大きく変わっていた。醍醐天皇の世では貴族の使い走りに過ぎなかった武士たちはすでに自らが為政者になれることを知ってしまったのである。 鎌倉幕府は全国を統治する機関としての成熟を見る前に倒れた。後醍醐天皇は確かに倒幕の主導者だ。しかしその実現には武士の力が欠かせなかった。大義名分となる権威の後ろ盾を持たない武力はただの暴力だが、武力のない権威もまた、実行力のない空疎なお題目に過ぎないのである。 北条氏の政権を打倒した武士たちが求めたのはあくまで自身の権益を保障してくれる新たな権威であって、天皇親政ではなかった。倒幕の最大の功労者でありながらないがしろにされたと感じた武士の心はやがて後醍醐から離れ、それを受け止めてくれる存在に向かって流れていく。
遠藤明子