【鉄道と戦争の歴史】間に合った「東海道本線全通」─日清戦争の勝敗を左右した輸送力
明治22年(1889)7月1日、念願であった東西交通、東海道本線新橋~神戸間が全通した。鉄道は国内の人や物の移動を飛躍的に高める目的に加え、有事には軍の人員や軍需品を素早く移動する目的を果たすことが期待されたのである。 東海道本線が全通した頃、日本は朝鮮半島の主権を巡って清(しん)国との関係が悪化していた。そうした情勢から、路線はさらに西へと延伸しなければ中途半端なものになってしまうと考えられた。ところが財源の関係で、山陽線は官設では敷設が難しかった。結局、神戸から先は民間が出資して設立した、山陽鉄道会社の手により建設されたため、政府の鉄道局はあまり関与できなかったのである。 民間資本の場合は利益重視のため、線路は難工事となる山間部を避け海岸線に敷設された。そして明治24年(1891)には尾道、明治27年(1894)6月10日には広島まで開通する。日清戦争はその年の7月25日に開戦、兵員は広島まで鉄道で移動し、宇品港から朝鮮へと渡ることになった。そのため広島と宇品港を結ぶ線も急遽敷設された。 本線では、品川と横浜付近で改良工事が行なわれている。どちらの駅も、先へ進むには進行方向を変える必要があった。そこでいちいち機関車を付け替えていたのでは非効率なので、品川駅や横浜駅を経由せず、まっすぐに東海道線を西進できる線を陸軍が建設したのだ。これらの線は戦後、鉄道庁に移管されている。 一方、東北方面は政府の手厚い援助を受けていた日本鉄道が、明治17年(1884)8月20日に上野から前橋の路線を開業。さらに明治24年(1891)9月1日、今の東北本線に相当する上野から青森の間を開通させている。こうして日清戦争が開戦した時には、青森から広島まで、本州を縦貫する鉄道が完成していた。そのため東北方面から兵員を輸送するのに、大きな力を発揮してくれた。 九州には多くの民営鉄道が敷設されていたが、これらは筑豊(ちくほう)や大牟田(おおむた)の炭鉱から産出した石炭を、門司や博多などの港湾へ輸送する役割を果たしていた。そのため、出征兵士を港湾まで輸送するのにも役立った。 そして開戦から1カ月半後、大本営は広島に移された。明治天皇も、広島城跡に設けられた御座所に鉄道で出向いている。 日清戦争が開戦する前に、大動脈となる国内の鉄道網が整備されたことは、戦争の帰趨(きすう)に大きな影響を与えた。近代化された軍隊を素早く移動させることができた日本軍は、陸の戦いにおいてまず9月15日に平壌を陥落させた。9月17日には黄海海戦が起こり、日清双方とも大きな侵害を受けてが、清国の北洋艦隊のダメージはより大きく、以降は黄海における清国艦隊の戦力は大きく低下した。 さらに10月24日に日本軍は鴨緑江(おうりょくこう)を渡河して、清国内に進撃。さらに第2軍による遼東半島上陸作戦も行われ、明治27年内に旅順をはじめとする清国の拠点は、次々と日本軍に攻略された。明治28年(1895)になっても日本軍の優勢は変わらず、3月20日になると下関において講和会議が始まる。そして4月17日に「日清講和条約(下関条約)」が結ばれ、日本の完全勝利で戦争は終結した。 その条件のひとつに「清国は遼東半島を日本に割譲する」というものがあった。ところが4月23日になると、ロシア帝国とドイツ帝国、それにフランスの三国が遼東半島を清に返還するように勧告してきた。これは三国干渉と呼ばれるもので、主導国はロシアであった。ロシアは極東進出を画策していて、そのために不凍(ふとう)港を求めていた。日本が遼東半島を領有すると、南満州の海への出口を失ってしまうことになる。さらに日本が満州へ進出して来ることも恐れたのである。 まだロシアに対抗する国力がなかった日本は、やむなく勧告を受諾することにした。この一件により、日本国内では弱腰の政府に対する批判が高まった。政府は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉にして、民衆の不満をロシアへの敵愾心(てきがいしん)に転嫁していったのである。
野田 伊豆守