豊臣秀吉は「ミイラ」になっていた!? 天下人の「悲惨すぎる末路」 お墓も廃墟になり…
朝鮮出兵のさなか、この世を去った豊臣秀吉。その墓所は、徳川の世では廃墟と化してしまうが、明治期になるとりっぱな墓碑銘がつくられることに。そしてその工事中、なんと秀吉の遺体らしき「ミイラ」が発見されたという。どういうことなのか? 書籍『日本史 不適切にもほどがある話』(堀江宏樹著/三笠書房)より一部を抜粋・再編集し、秀吉の死後、ミイラが発見されるに至る経緯について紹介する。 ■ 20世紀に見つかった「秀吉のミイラ」 慶長3(1598)年8月18日、大坂城で闘病していた豊臣秀吉が62歳で逝った。 前年1月以来、秀吉の命によって日本中の武将たちは、徳川家康などごく一部を除いて、第二次朝鮮出兵(「慶長の役」)に出払っていたし、秀吉の死はその撤退が終わるまでは極秘機密となり、箝口令(かんこうれい)が敷かれることになった。 その結果、内々での仏事が営まれただけで「黄金太閤」そして「天下人」秀吉にふさわしい葬儀などは行なわれないままに終わった。しかし水面下では秀吉の遺言を果たすべく、朝廷との交渉が始まっていた。秀吉は「神」になるつもりだったのだ。問題は、秀吉が熱望した「新八幡(いまはちまん)」という神号だった。 朝廷からの返答を待たぬまま、秀吉という「神」のための社殿工事が急ピッチで進められていく。この年の12月18日、徳川家康など多くの大名たちが完成した京都・阿弥陀ヶ峰社殿に入っていくのを見て、のちに家康を「神」として久能山に葬る神事を執り行なった梵舜(ぼんしゅん)という神道関係者でさえ訝(いぶか)しげな様子で日記を書いている(『舜旧記(しゅんきゅうき)』)。 秀吉の死後4カ月を過ぎてもなお、大坂城関係者以外に情報は伝えられず、秀吉死亡説さえも流れていなかったようだ。 ■「神」になりたかった太閤 阿弥陀ヶ峰の社殿は、秀吉ゆかりの方広寺の「東山大仏」関連の追加施設だと偽られていた(『義演准后日記』慶長三年九月十一日条)。 慶長4(1599)年1月5日、石田三成たち五奉行は、昨年末に朝鮮からの兵の引き揚げが完了したことを契機に秀吉の死を公表し、建造中の社殿は大仏関係の施設ではなく、昨年亡くなった秀吉が「神」となって祀られるべき建物で、その墓所にもなるという説明をした。 この時、豊臣家からは秀吉の神号が「新八幡」という情報まで流されてしまっていた。昨年打診して以来、朝廷から正式な返答はまだだったが、既成事実をつくることで拒絶できない空気をつくろうとしていたのだろうか。 僧侶や公家の日記にも「八幡社見物」(『義演准后日記』)、「東山新八幡社」(『言経卿記』)という記述が見られるし、徳川家の史料である『当代記』にも、秀吉が「神」として八幡大菩薩になるという記述がある。 しかし、あろうことか朝廷は「新八幡」の神号を拒絶してきた。 理由は諸説あるが、一つに朝廷の神祇官の頂点に立つ、吉田兼見が反対したらしい。吉田は織田信長や明智光秀、そして生前の秀吉とも親交が深かったが、八幡とは八幡大菩薩の略で、神号にしては仏教色が強いから猛反発したのだともいう。 その後、「新八幡」の代案として、吉田が当主を務める吉田神道では最高の神位である「大明神」を含む、「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号を進呈するともいってきたので、「それなら……」と石田三成なども丸め込まれてしまったようだ。 なぜ「豊国」なのかといえば、「豊」臣秀吉だからという単純な話ではなく、日本の古称は「豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)」で、秀吉はこの国の主だったから「豊国大明神」にするということだった。 しかし、農民出身という身分によって武家の棟梁(とうりょう)である征夷大将軍にはなれなかったとも囁かれる秀吉にとって、武家の守り神にして、軍神の「八幡」の号こそが「大明神」などより、よほどほしかったのではないか。 秀吉本人は朝鮮半島に日本人が攻め込むのは『古事記』、『日本書紀』の神功皇后以来の快挙だと本気で考えていたようで、だからこそ、神功皇后とその皇子・応神天皇ゆかりともされる「八幡」の神号に固執したのかもしれない。 しかし、神道においては天照大神に次ぐ立場の神が八幡神なので、いくら「天下人」秀吉とはいえ、軽々しく進呈できるような神号ではなかった。