「われこそが天皇」 大量発生した「自称・天皇」たち GHQが注目し『ライフ』誌にも取り上げられた熊沢天皇の正体とは
■共犯者か? 被害者か?「GHQの手のひら返し」 もちろん熊沢大然の発言にはなんの証拠もないのだが、戦後のドサクサに自称・天皇として全世界デビューを遂げた寛道にとっては、疑いようのない「真実」だったのだろう。天皇家の権威が揺らいだ今ならば、養父の悲願を叶えられるかもしれないという一縷の望みを抱いて登場を果たしたといえるのだ。 そして一時はGHQからも注目されたのだが、「成功」は本当に瞬間的なものだった。系図だけでなく、熊沢家に代々伝わる「南朝の御神宝」も寺に預けていたが盗難されたとか、すべての主張がアヤフヤだったからだ。 昭和21(1946)年から昭和29(1954)年にかけて、昭和天皇は全国津々浦々を巡幸し、敗戦にうちひしがれた人々を励まして回った。 この時の民衆の姿を見て、いかに天皇という存在が日本人から必要とされているかを痛感したGHQは、天皇制廃止や天皇家の交代はあってはならないことだと認め、熊沢家の主張も完全に退けられてしまったのである。 しかし、あきらめきれない熊沢天皇の迷走はその後も続いた。先祖が南朝に仕える武士だったと自称する吉田長蔵(よしだ・ちょうぞう)という人物の売名に使われ、昭和天皇を天皇不適格者として裁判所に訴えて却下されたことまであったが、その行為によって熊沢天皇こそがハリボテの偽天皇であることが日本中に伝わり、嘲笑の的となった。 晩年になっても熊沢天皇の主張は揺らがず、昭和32(1957)年から翌年頃には、天皇を退位して法皇になると宣言し、出家してもいないのに大延(だいえん)法皇を名乗った。 しかしその生活は、東京・池袋や練馬などのマッサージ師夫婦の家に転がり込んで世話してもらうしかない窮状が続いていた。地元・愛知ではもちろん、一家で移住した大阪でさえ暮らせなくなり、家族からも見捨てられてしまったので、66歳以降は東京にて単身で生活せざるをえなくなったのだと思われる。 昭和41(1966)年6月11日、板橋の宗教施設で亡くなった時には、『週刊サンケイ』(昭和41年7月4日号)などに熊沢天皇の死亡記事は掲載されたが、大きなニュースにはならなかった。あまりに不条理な76年の人生であった。 ※画像キャプション:歴史人編集部
堀江宏樹