妹の妊娠疑惑に激怒した道長の信じられない暴挙 居貞親王もドン引きした怒りの“身体検査”事件とは
■東宮と道長が激怒したスキャンダル 藤原道長の父・藤原兼家には、藤原国章の娘との間に綏子という女子がいた。道長にとっては8歳ほど年下の異母妹ということになる。母に関しては同じく兼家の妻のひとりだった藤原道綱母が『蜻蛉日記』に「憎しと思ふ」と記した近江という人物であるという説がある。 ちなみに近江という女性は円融天皇期に摂政を務めた藤原実頼の召人(めしうど)だったとされている。召人とは、女房として自分が仕える主人もしくはその近親者と愛情を交わす女性のことをいう。ただし妻にはなり得なかったので、現代でいう“愛人”的な存在だった。 永祚元年(989)12月、綏子は16歳で時の東宮・居貞親王(後の三条天皇)の後宮に入る。この2人は2歳違いの甥とおばの関係だった。女御の宣下こそ正式に受けなかったものの、『尊卑分脈』には「麗景殿女御」と記載されている。 『栄花物語』によると、こうした政略結婚の背景もあってか綏子は寵愛されることなく、お渡りもなかったという。その代わり生来の明るくて親しみやすい性格から多くの人々に慕われ、彼女がいた麗景殿は殿上人たちが集う一種のサロンのようになって賑わっていたらしい。 一方で肝心の居貞親王は彼女を顧みることもなく、正暦2年(992)の冬に藤原済時の娘である娍子を女御として迎え入れた。綏子は夫から愛されない辛さを味わったことだろう。 その孤独が理由のひとつかどうかはわからないが、『一代要記』や『大鏡裏書』などによると、22~25歳頃、村上天皇の孫にあたる源頼定との密通が発覚。宮中から出ることになった。とはいえ、同じく父・兼家の政治の道具として円融天皇に入内した経験を持つ異母姉・東三条院(藤原詮子)や異母兄・道長が支援していたようである。『権記』などには道長がしばしば綏子のもとを訪ねている様子が記録されている。身分も、長保3年(1001)に正二位に叙されている。 ところが綏子と頼定の愛は途絶えていなかった。実家で暮らす綏子のもとに頼定が通い続けたのである。それが一大事件を引き起こすことになった。『大鏡』が事の顛末を詳細に描いている。 頼定との愛を育み続けた結果、綏子が懐妊。そしてその噂がよりにもよって居貞親王の耳に入ったのである。とりたてて寵愛していなかったとはいえ、次期天皇である自分の妻の身分にあった女性が妊娠したというスキャンダルに、居貞親王はすぐさま道長を呼びつけて問いただした。 居貞親王以上に怒り狂ったのが道長だ。密通という外聞の悪すぎる理由で宮中から離れた異母妹が、その密通相手の子を身ごもったとあって(しかも自分が目をかけていたこともあり)、道長は怒りのままに綏子の住まいまで押しかけた。そしてなんと懐妊しているのかどうかを確かめるために、綏子の衣をはだいて乳房を捻りあげたというのである。結果、母乳が出たために懐妊は事実ということになった。驚くべき所業である。 東宮の妻の立場にある女性に手を出した頼定に対して、居貞親王はその命を奪おうかというほどに激怒していた。しかし、道長が“身体検査”の結果を報告にきた際、その横暴なふるまいと綏子が号泣していたということを聞いて、さすがに綏子が不憫になったという。 2人の間に生まれた子が実際誰だったのかは謎だが、後に比叡山延暦寺・横川の長吏(長官)となった頼賢という人物だったのではないかと推察されている。とすると、幼くして早々に寺に入れたということになる。 綏子は長保5年(1003)に病床に臥した。そして翌年2月、31歳でこの世を去ったのだった。
歴史人編集部