「あそこの大学に行け」「就職しろ」の日本を飛び出して24年。川合慶太郎がオランダで築き上げた“Jドリーム”の存在意義【現地発】
父親たちからも「サッカーをしたい」という声が高まった
在オランダ日本人の子どもたちの運動不足解消を目的に、2001年に発足したJドリームは、サッカーをするあまりの環境の良さに父親たちの「私たちもサッカーをしたい」という声の高まりによって、06年にU-50チーム(現在のONEチーム)が生まれた。30代、40代がメインだが、なかには20代の若い選手、60代のオーバーエイジもいる。 アムステルフェーン市のアマチュアクラブ、RKAVICの施設で練習を終えると、彼らはクラブハウスでビールを飲みながら歓談する。トレーニングのこと、今度の試合のこと、オランダサッカーのこと、子どもの学校のこと、家族旅行のこと――。話題は尽きない。 U-50チーム立ち上げ時、彼らから「現地のスタッフが仕事をしないから、私がたくさん働かないといけない。彼らとのコミュニケーションがうまく取れないんです」という愚痴がこぼれた。Jドリームの代表を務める川合は当時、現地採用のスタッフとして日系企業で働いていた。 「私は現地のスタッフとコミュニケーションを取りながら働いています。駐在員の方が英語も仕事もできるはずなのに、それはなぜでしょう?」 すると、「川合さんはサッカーができるからでは?」という話が出た。GVVVやRKAVICというオランダのアマチュアクラブでプレーしていた川合は、現地の人たちと上手くコミュニケーションを取ることができたのだ。 「分かりました。Jドリームで在オランダ日系企業対抗サッカー大会を作りますから、皆さん、チームのキャプテンとして同僚の人たちに『こういう大会があるから、会社のみんなで参加しようぜ』と呼びかけてください」 07年、第1回Jドリームカップが成功裡に終わると「サッカーを通じて、我々駐在員と、現地スタッフのコミュニケーションがスムーズになりました」という嬉しい言葉が聞こえてきた。 「Jドリームカップの第5回大会(2012年)は、記念大会としてデカいイベントをしよう」と川合は、オランダ代表OBチームを招いてエキシビションマッチを催すことを考え、当時のRKAVICチェアマンと共にエドワード・デ・クー(日蘭サッカーコーディネーター)の力も借りてオランダの関係者と根回ししていた。ところが2011年3月11日、東日本大震災が起こった。 オランダ代表OBマッチで話を進めていた川合たちは、「来年、Jドリームカップの5周年とか言っている暇はない。こういうのはスピードが大事。今やるぞ」と話し合い、ペーター・ボス(元ジェフ千葉)、アルフレッド・ネイハイス(元浦和レッズ)、テド・ファン・レーウヴェン(オランダ複数クラブのTDとして日本人選手を獲得した)ら日本サッカーにルーツのある方々の賛同、協力を得て、チャリティーマッチを4月13日、オランダで開催することにした。
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