殺人、放火……外国から賊徒がやってきた! 刀伊の入寇を時代考証が解説!
隆家は警固所で作戦の指揮
このようにして刀伊を撃退した隆家たちであったが、もちろん隆家は、警固所にいて作戦の指揮を執っていたのであり、ドラマのように最前線に出て戦闘を行なったはずはない。彼はあくまで公卿なのである。また、ドラマでは隆家は大鎧(おおよろい)を着していたが、この時代の武具については未だ解明されていないことが多い。いずれにしても隆家がそれを着すはずはない。 また、刀伊の者たちが鏑矢の音に驚いたということは『小右記』に見えるので事実であるが、この時代の鏑矢が中世以降の鏑矢と同じ形状であったかどうかは不明である。鏑矢というのは本来は戦闘開始を告げるデモンストレーションの具なのであり、多数を所有していたとも思えない。『小右記』の記事は最初の戦闘で彼らが驚いたという描写に過ぎず、その後もそれを使い続けたわけではない。まして隆家がそれを射たはずはない。 こうして日本の危機は去っていった。大宰府の前任者を含む府官(ふかん)と北部九州の在地豪族を把握してきた隆家の人望と、果断にして的確な処置によって、被害を最小限に食い止めたと称すべきであろう。 行成には気の毒であるが、もしも大宰府の責任者が行成であったなら、どのような対応ができたのか、いささか不安である。 また、この時に来襲したのが刀伊で、鎌倉時代に来襲したのがモンゴルであったことも、日本にとっては幸運であった。鎌倉武士ならば刀伊くらい苦もなく撃退したであろうが、平安時代にモンゴルが来襲していたならば、容易に内陸にまで攻め込まれていたであろう。彼らは刀伊と違って、日本を占領して定住する可能性が高かったのである。
隆家指揮下の武者たち
それはさておき、人兵・舟船ともに不十分のまま苦戦を強いられたものの、最終的に刀伊を撃退した隆家指揮下の「府の止(や)むこと無き武者等(大宰府の立派な武者たち)」の存在を重視すべきであろう。彼らはほとんどが大宰府官の経験者であるという(関幸彦『刀伊の入寇』)。 そしてそれらを取りまくかたちで在地住人系の武士が臨時的武力を構成しており、地方版「兵(つわもの)の家」が形成されているとの指摘もある。もうすでに在地においては、中世がすぐ近くにまで来ていたことになる。 また、大蔵(おおくら)氏流の原田(はらだ)氏、平氏(為賢〈ためかた〉)流の阿多(あた)氏をはじめ、中世の鎮西(ちんぜい)武士団のほとんどが、「刀伊の入寇」の際に隆家の指揮下で活躍した武者の子孫であった(野口実「藤原隆家」)。 南北朝時代に懐良(かねよし)親王を擁した肥後(ひご)国の豪族菊池(きくち)氏のように、祖先にあたる藤原政則(まさのり、蔵規〈くらのり〉)を隆家の子息として結びつけ、隆家の後裔(こうえい)を自称したものもいる。いかにこの戦闘における武士の動員と刀伊の撃退が、画期的な武力的事件として、現地で語られ続けてきたかを示していると言えよう。 なお、四月十日・十一日の二日間、北風が猛烈で刀伊人が上陸できず、海中に逗留したことに関して、人々が「神明の為す所か」と語り合ったということは、後世の「神風(かみかぜ)」思想(神話)と考えあわせると興味深い。
倉本 一宏