殺人、放火……外国から賊徒がやってきた! 刀伊の入寇を時代考証が解説!
壱岐島では百四十八人が殺害
・三月二十八日 賊船五十余艘(そう)が対馬(つしま)・壱岐(いき)島に襲来し、殺人・放火を行なった。対馬守(つしまのかみ、(大春日〈おおかすが〉か)遠晴(とおはる)は逃れて大宰府に状況を申上したが、壱岐守(いきのかみ)藤原理忠(まさただ)は殺害された。対馬島は殺害された人が十八人、拉致(らち)された人が百十六人。壱岐島は殺害された人が百四十八人、拉致された人が二百三十九人で、生き残ったのは国司(こくし)九人、郡司(ぐんじ)七人、百姓(ひゃくせい)十九人の計三十五人に過ぎなかった。焼亡(じょうもう)された住宅は四十五宇(う)、食われた馬牛百八十九疋頭という被害であった。
有史以来初の大規模侵攻
・四月七日 遠晴、および壱岐島分寺講師常覚(とうぶんじこうじじょうかく、三度にわたって賊徒を撃退した僧)が大宰府に到着、大宰府は対馬・壱岐島の被害状況について解(げ)文(げぶみ)を作成し、飛駅(ひえき)言上した。「船の長さは八尋(ひろ)から十二尋(平均一五メートル)、一船に櫂(かい)が三、四十あり、五、六十人が乗っていて、人ごとに楯(たて)を持ち、前陣(ぜんじん)の者は鉾(ほこ)、次陣(じじん)は大刀(たち)を持っていた。その次陣は弓箭(きゅうせん)の者であった。十から二十隊が山野を駆けめぐり、馬牛を斬っては食い、犬肉も食う。老人児童はすべて殺し、男女を船に追い載せ、穀物(こくもつ)を運び取る」と。 大宰権帥の隆家もこの日、懇意の実資に私信(ししん)を認(したた)め、飛駅使に託した。その書状にはただ一行、「刀伊国の者五十余艘が対馬島に来着(らいちゃく)し、殺人・放火しています。要害を警固(けいご)します。兵船(へいせん)を差し遣わし、大宰府は飛駅で言上します」と書かれていた。 この日、賊船は筑前(ちくぜん)国怡土(いと)郡(現福岡市の西部と糸島市の一部)に上陸し、殺害四十九人、拉致二百十六人、馬牛三十三疋頭という被害を出していた。 実に有史以来、日本が外国勢力に大規模に侵攻されたのはこれがはじめてで、以降も鎌倉時代の蒙古襲来、その次は太平洋戦争の空襲までないのであるから、いかに重大な出来事であったかがわかる。 賊徒は志摩(しま)郡(現福岡市の西部と糸島市の一部)と早良(さわら)郡(現福岡市の南西部)に侵攻し、それぞれ殺害百十二人と十九人、拉致四百三十五人と四十四人、馬牛の被害七十四疋頭と暴れまわった。 日本側では、志摩郡の住人文室忠光(ふんやのただみつ)以下、召集(しょうしゅう)された兵士が防戦し、忠光の矢に数十人が当たった。忠光は賊徒の首や兵器を進上した。 ・四月八日 大宰府はこの日も解文を作成し、飛駅言上した。「刀伊国が筑前国那賀(なか)郡能古(のこ)島(現福岡市の博多湾に浮かぶ島)を襲撃したが、敵対することができない。賊船は速さが隼のようである。帥(隆家)が軍を率いて警固所(けいごしょ、貞観〈じょうがん〉十一年の新羅〈しんら〉海賊の入寇の後に鴻臚館〈こうろかん〉に付設した鴻臚中島〈なかじま〉館として造られた防衛施設。福岡市中央区城内、後に福岡〈ふくおか〉城が築かれた赤坂〈あかさか〉山)に到り、合戦する」というものである。 また、隆家は妻に宛てた書状を書き、飛駅使に託した。「あの異国(いこく)船は能古島に来着した」というものである。 この日、賊徒は能古島に来襲し、拉致九人、馬牛六十八疋頭の被害を出した。死者がいないのは、日本側の抵抗が強かったうえに、住民がすでに避難したためであろう。