殺人、放火……外国から賊徒がやってきた! 刀伊の入寇を時代考証が解説!
「老僧のようであった」――出家した道長
最後に道長の出家のシーンもあった。浄土信仰に傾斜していた道長は、寛仁三年(一〇一九)正月十日、胸病を患い、前後不覚となった。二月に入っても病悩は治まらず、三日には霍乱(かくらん)のようになった。四日には眼病が発った。陰陽師(おんみょうじ)や医家(いか)が、「魚肉を食されよ」と勧めたので、道長は長々と言い訳を日記に記して、魚肉を食した(『御堂関白記』)。 三月十八日には胸病がふたたび発り、この日以降は、道長はほとんど日記を記録することもできなくなっている。そして二十一日、道長はついに出家を遂げた。二十九日には実資が道長の許を訪ねているが、実資は出家した道長を見て、「容顔(ようがん)は老僧のようであった」という感想を記している。また、実資は道長に対し、「そもそも山林に隠居(いんきょ)するのではなく、一月に五、六度は参内(さんだい)して(後一条天皇の)竜顔(りょうがん)を見奉ってはどうでしょうか」と語っている(『小右記』)。 実資とすれば、頼通(よりみち)一人に任せるよりも道長が権力を行使し続けた方が、宮廷の安定につながると考えたのであろう。この面談に関しては、四月二日になって、道長嫡妻の源倫子(りんし)から、実資と道長の密談を悦んでいるという報せがあった(『小右記』)。
「刀伊」とは東夷のこと
46話では、フィクションパートはさておき、実際に寛仁三年(一〇一九)に起こったいわゆる「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」も描かれることになる。 刀伊というのは高麗(こうらい)語で高麗以東の夷狄(いてき)つまり東夷(とうい)に日本文字を当てたもので、もっぱら北方に境を接する東女真(ひがしじょしん、東部満州のツングース系の民族。後に中国で金〈きん〉や清〈しん〉を建国することになる)のことを指していた。 当時の中国では、北の遼(りょう)(契丹〈きったん〉)と南の宋(そう、北宋〈ほくそう〉)が対峙(たいじ)していた。遼が女真と宋との交易路を遮断し、高麗を屈服させると、宋との全面戦争に突入した。宋との貿易が思うに任せぬ女真は、高麗国内の混乱に乗じ、その一部が海賊化して半島東部を荒らしまわるようになったのである(吉川真司「アジア史から見た女真海賊事件(刀伊の入寇)」)。 この事件は『小右記』の四月十七日条から十二月三十日条まで、および『朝野群載(ちょうやぐんさい)』所収「寛仁三年四月十六日大宰府解(だざいふげ)」によって詳細が知られるので、時間順に整理してみる(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。ちょうど道長が出家した頃のことであった。