殺人、放火……外国から賊徒がやってきた! 刀伊の入寇を時代考証が解説!
博多への来襲
・四月九日 刀伊は博多(現福岡市博多区)に来襲した。警固所を直接、攻撃しようとしたのであろう。急いで大宰府兵を徴発することはできず、平為忠(ためただ)や同為方(ためかた)を首として合戦を行なった。異国軍は多く射殺されたが、戦場に留めず、船中に持ち入った。また、戦場に棄(す)て置かれた者や生虜(いけどり)となる者もいた。兵具・甲冑(かっちゅう)を奪取した。 賊船中の刀伊人の中には、新羅(高麗)国人もいた。箭(や)の長さは一尺ほどと短かったが、射力は強く、楯の中の人をも穿(うが)った。ただ、大宰府軍で射殺されたのは下人(げにん)ばかりで、将軍は射られなかった(単に後方にいただけであろうが)。 船の中には拉致された対馬・壱岐島の人もいて、「馬を馳せかけて射よ。臆病(おくびょう)は死にたり」と叫んだ。そこで大宰府軍が馳せ進んで射たところ、刀伊人は鏑矢(かぶらや)の音に恐れ、遁走(とんそう)して船に帰り乗った。その際、対馬・壱岐島の人の多くは船から下り、博多に逃げることができたが、子供の中には簀巻(すまき)にされて博多津(現福岡市中央区那の津)に落とされた子もいた。逃れた人は、刀伊人が食人(しょくじん)を行なっていたことを告げた。 同じ日、刀伊人は筥崎(はこざき)宮(現福岡市東区箱崎)を焼こうとしたが、大宰府兵が前行兵一人を射殺したところ、驚いて船に乗り、逃遁(とうとん)した。
「神明の為す所か」
・四月十日・十一日 二日間は北風が猛烈で、刀伊人も上陸できず、海中に逗留(とうりゅう)した(「神明〈しんめい〉の為す所か」としている)。その間、大宰府では兵船三十八艘を造営して追襲(ついしゅう)させたところ、刀伊人は本州(朝鮮半島)を指して遁去(とんきょ)した。大宰府兵船二十余艘は勝ちに乗じて追撃したが、隆家は、「先ず壱岐・対馬等の島に到るように。日本国境に限って襲撃せよ。新羅(高麗)国境に入ることのないように」と誡(いまし)めている。 ・四月十一日 未明に刀伊人は筑前国志摩郡船越津(ふなこしのつ、現糸島市志摩船越)に現われたが、すでに精兵(せいへい)が待ち受けていた。 ・四月十二日 酉剋(午後五時から七時)に上陸してきたが、合戦の結果、矢に当たった賊徒が四十余人、捕虜(ほりょ)が二人、その中の一人は女であった。前大宰少弐(さきのだざいのしょうに)平致行(むねゆき)以下が船三十余艘で追撃した。 ・四月十三日 刀伊人は肥前(ひぜん)国松浦(まつら)郡(現佐賀県唐津市から長崎県佐世保市)に到り、劫掠(ごうりゃく)を行なった。前肥前介(さきのひぜんのすけ)源知(さとる)が郡内の兵士を率いて合戦し、矢に当たった賊徒が数十人、捕虜が一人という戦果を得た結果、海の向こうに帰って行った。 ・四月十六日 大宰府は解文を作成し、各地での戦闘や被害の状況、賊徒を撃退し、若干を捕虜にしたこと、すでに危機は去ったことなどを記して飛駅言上した。 隆家も実資に書状を認め、これも飛駅使に託した。「異国人は去りました」と。