孤児は12万3511人、離婚希望者の行列…『虎に翼』寅ちゃんモデルが「家庭裁判所」で見た現実
日本国憲法や戦後の民法の成り立ち、さらに現在は「家庭裁判所」の設立まで、今までとっつきにくかった法曹の世界をわかりやすく、しかも自分事として考えさせてくれる伊藤沙莉主演の朝ドラ『虎に翼』。ドラマの人気とともに、モデルとなった日本初の女性弁護士である三淵嘉子の生涯についても関心を持つ人が増えている。 【画像】号泣の声多し!『虎に翼』前半の名シーンの数々 現在ドラマでは、たった2ヵ月の短期間で家庭裁判所を設立するというハードな任務を成し遂げ、寅子は東京家庭裁判所判事補 兼 最高裁判所家庭局事務官となり、ついに念願の裁判官になった。しかし、始まったばかりの家庭裁判所には解決しなくてはならない問題が山積していた。 史実の三淵嘉子も、家庭裁判所の設立にとても苦労し、滝藤賢一が演じる多岐川のモデルでもある宇田川潤四郎ら家庭局のメンバーと奮闘する。この家庭裁判所との関わりは、嘉子の法曹人生の中で大きなターニングポイントといっても大げさではない。設立までの奮闘に関しては、前回の記事をぜひとも読んでいただきたい。ドラマではあまり詳しく描かれなかったが、家庭裁判所の概念は戦前の裁判所の概念とはあまりにもかけ離れていたので、拒否反応を示す裁判官が続出し、その中意見をまとめながら設立していく作業はとても大変だったのだ。 今回の記事では、その後、初の家庭裁判所所長として5000人超の少年少女を導き、「家庭裁判所の母」として、八面六臂の活躍をしてきた嘉子の人生を追う。記事後半、ドラマの展開の先読みになる部分もあるが、史実ではどうだったのを知ることでよりドラマへの理解が深まるはずだ。
開設直後からてんてこ舞いの忙しさ
6月17日からの『虎に翼』第12週では、戦争で親や家族を失った戦争孤児たちの現状を知るために、上野に視察に行く姿が描かれ、そんな子どもたちの救済に奔走する轟(戸塚純貴)とよね(土居志央梨)との再会が描かれた。さらに、生きていくためにスリを行なう戦災孤児の道男(和田庵)と出会い、行く当てがない道男を寅子の実家・猪爪家で預かることになる。 史実でも、戦争によって生み出された問題で、三淵嘉子が立ち上げに関わった家庭裁判所は、開設直後から大勢の人が押し寄せた。戦死した親の遺児を養子として引き取る手続きや外地で生死不明の人についての「失踪宣言」、本籍を失った人の「就籍」も家庭裁判所の業務だったため、業務は多岐にわたり、多忙を極めた。 また旧民法では母親は親権者になることができなかったが、新たな民法で男女平等となったとたん、子どもとともに夫の家を出たい女性たちが、江戸時代の縁切寺よろしく家庭裁判所に駆け込んだ。離婚等による「子の氏の変更」は、開設後4ヵ月で、なんと2万件を超えたという。 さらに、戦争孤児の処遇も家庭裁判所の大切な仕事だった。厚生省児童局企画課による「全国孤児一斉調査結果(1948年2月1日)」によれば、孤児の総数は12万3511人。その中で戦災孤児は2万8248人とされているが、実際にはもっともっと多かったと言われている。学童疎開中に東京大空襲など都市部の空襲で両親や親族を失った子どもたちが多く生まれた。また、大陸で両親を失って孤児となって引き上げてくる子どもたちもいた。ドラマでも東京・上野界隈での戦災孤児の視察が描かれたが、上野駅の地下道には戦災孤児が溢れ、スリ・窃盗といった犯罪だけでなく、食べるものを得ることができず、そのまま餓死する子どもも数多くいたという。 嘉子ら職員たちは、戦争孤児が送られてくると孤児の出身地の市町村役場に問い合わせ、親や親族を探した。頼れる人が見つからなけば、福祉施設や補導委託先を探して引き取りを要請。幼い子の場合は児童相談所に移送した。家裁の職員たちは、必死で戦争孤児たちを救おうとしていたのだ。 他の局員からは、外部施設との連携に批判的な声があがっていたが、そんな雑音に取り合う暇もないほど、仕事は山積み。それでも「親切、丁寧、なごやか」をモットーに困って家庭裁判所にやってくる人たちに対応したという。家庭裁判所は戦争や旧民法下で傷つき、虐げられていた人たちが、新たな憲法、民法のもと再出発するのを親身になって手助けする救いの場でもあったのだ。