甲冑研究40年 伊予松山藩重臣の末裔、橿原考古学研究所付属博物館課長が万感の特別展
ヤマト王権が日本列島平定に向けて量産した古墳時代の甲冑(かっちゅう)を40年にわたって追い続ける研究者がいる。奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)の吉村和昭学芸課長(60)。伊予松山藩重臣の末裔(まつえい)という家柄で、「幼い頃から『さむらいもの』が好きだった」のが研究の出発点。同館で開催中の特別展「甲冑」には今年度末の役職定年を控え、「集大成に」との思いがあった。 【写真】東京国立博物館以外での公開は珍しいという大丸山古墳(山梨県)のよろい ■原点は幼少期 特別展では、綿貫(わたぬき)観音山古墳(群馬県)の国宝をはじめ、東京国立博物館以外での公開はほとんどないものなど約70点の甲冑がそろう。 大きくて重量のある甲冑は、輸送に伴う安全面などから全国規模での開催は容易ではないが、橿考研で培った展示ノウハウ、研究の蓄積や他の博物館の幅広い信頼もあって実現した。「古墳時代の300年間にわたる各地の甲冑を集めた展示は全国初」と吉村さん。 武具への関心の原点は幼少期にあった。先祖は江戸時代、伊予松山藩の家老や番頭(ばんがしら)を務めた家柄で、松山市内の屋敷にはかつて太刀ややり、駕籠(かご)などがあったといい、親戚から武家の話を聞くのが楽しみだった。 考古学に目が向いたのは中学・高校生の頃。昭和50年代当時、「世紀の大発見」が相次いだ。高松塚古墳(奈良県明日香村)に次ぐ第二の壁画古墳かと騒がれたマルコ山古墳(同村)、被葬者名の記された墓誌が発見された太安萬侶(おおのやすまろ)墓(奈良市)などがテレビや新聞で連日のように報じられ、古代ロマンにひかれた。 とりわけ、ニュースにたびたび登場した、橿考研の創設者で甲冑研究の第一人者、末永雅雄初代所長(故人)にあこがれた。進学先は迷わず末永さんが名誉教授だった関西大、卒業後は橿考研に入った。末永さんはすでに退任していたが、甲冑を生涯の研究テーマに据えた。 ■先輩追悼の陳列 甲冑は全国で約800基の古墳から出土し、5世紀に隆盛。吉村さんは製作技術の変化などを研究し、「甲冑生産には大量の鉄と高度な技術が必要。ヤマト王権が一元的に生産して各地の勢力に配布した権威の象徴でもあった」と指摘する。 最大の謎は、大量生産にもかかわらず製作工房が見つかっていないことだ。古墳時代の大規模な生産工房跡の南郷角田遺跡(奈良県御所市)では、甲冑の一部とされる数センチ大の鉄片が出土し、工房の可能性が指摘されている。