東京パラ五輪女子マラソンで悲願の金メダルを獲得した道下美里が表現した「今この社会に必要なメッセージ」とは?
道下は小学校4年生のときに角膜の下にタンパク質が沈着し、視力が低下していく膠様滴状角膜ジストロフィーを発病。中学2年生で右目を失明しながら福岡市内の短大を卒業し、生まれ育った山口県下関市に戻って調理師として働いていた。 しかし、進行性の難病は左目でも発病する。25歳のときには視力は、光がわずかに感じられる0.01以下にまで低下。調理師もやめ、ショックから「私は社会のお荷物では」とふさぎ込んでいた道下が、両親から勧められたのが山口県立盲学校(現・下関南総合支援学校)への入学だった。 課外授業として中学時代に部活動に励んでいた陸上競技を28歳で再開させた。ほぼ全盲になってから募らせたストレスが原因で増えてしまった体重を減らすための陸上は、盲学校の仲間たちから受けた刺激を介して自分を表現していく手段に変わった。 目が見えない自分に絶望していた道下は、何事にも前向きに取り組む仲間たちの言葉を聞いて「自分は甘えていた」ことに気づかされた。種目は中距離走から周囲の勧めで長距離走に変わり、31歳で臨んだ初レースで3時間30分台をマークしたマラソンに絞られた。 一人では視覚障害者マラソンは走れない。2009年の結婚を機に再び福岡市に移り大濠公園を練習拠点とした道下を支えたのは「チーム道下」だった。市民ランナー仲間によるクラウドファンディングで結成されたチームが交代で伴走を務めてくれた。 視覚障害者マラソンが陸上競技の種目に採用された前回リオ大会には、最高の結果で恩返しする舞台だと心に決めて臨んだ。結果は銀メダル。周囲は「世界の2位だから」とねぎらったが、無念の思いが表彰台に立った道下を号泣させた。 そのリオ大会でガイドランナーを務め、悔しさを共有した青山さんが、東京大会でも同じく前半を伴走してくれた。表彰式で、道下さんは青山さんとともに、国立競技場の表彰台の真ん中に立った。日の丸が掲げられ君が代が流れる前に東京都の小池百合子知事から授与された金メダルを、道下は自分の首にではなく青山さんの首にかけた。 想定外の事態に驚いた青山さんが何度も首を振り、すぐに金メダルを外して道下の首にかける。 「君が代を聞きたいと5年前からずっと思ってきて、やっとそこにたどり着いて、嬉し涙が流れてきました。本当にまだ夢みたいで。まったく違うよね?」