「許されるなら、戦死した夫の後を追いたい」若くして3人の子のシングルマザーになった女性の絶望 #戦争の記憶
「この世の地獄」と形容された沖縄戦で、目を見張るような働きをみせた松倉秀郎さん(=上等兵、享年35)は米軍の反撃に遭い、最愛の妻と3人の幼い子どもを郷里に残して命を落とす。 【写真を見る】最愛の妻と3人の幼い子どもを残して命を落とした「凄腕スナイパー」だった夫 〈実際の写真〉
その後、日本はポツダム宣言を受諾し降伏。兵隊にとられた夫の無事を祈り、ずっとずっと帰りを待ち続けた妻・ひでさんのもとに届いたのは、あまりに残酷な知らせだった。 「本当は夫の後を追いたい」 「幼子を抱えて生き抜くのは、死よりも苦しくつらいこと」 ひでさんは、夫の元上官に宛てた往信のなかで、こんな想いを吐露したのだった――。 ※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による初著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、全3回にわたってお届けする。【本記事は全3回の第2回です】 ***
「凄腕のスナイパー」の正体は…
記録によると、北海道出身の松倉秀郎上等兵は、沖縄戦の終結が近い6月16日もしくは17日に、現在の糸満市国吉で戦死したとされている。 ところが終戦後、伊東孝一大隊長が私家版の戦記を書くために米軍側の資料や書籍を繙くうち、驚くべき事実が浮かび上がってきた。 米軍が国吉台の陣地を完全に破壊、掌握できないまま島の南部へ転戦していったのは、この丘を守備していた伊東大隊を始めとする日本軍の激しい抵抗に手を焼いたからだった。 さらに、たったひとりの日本兵に、多数の海兵隊員らが狙い撃たれたことも記されている。
「その狙撃兵こそ、松倉だったのだろう」と、伊東は確信している。大隊本部壕の入り口で戦死した松倉上等兵を看取った、国島伍長の証言も重ね合わせたうえでの判断だった。 終戦の翌年、沖縄の収容所での抑留生活を終え内地へ復員するとすぐに部下の遺族へ「詫び状」を出す仕事に取り掛かった伊東大隊長。手紙は松倉秀郎上等兵の家族のもとにも届き、妻・ひでさんが伊東に宛てて返信を書いている。 以下、妻・ひでさんからの手紙(1946年6月25日)の内容を紹介する。 ***