【あの人の東京1年目】役者 佐藤二朗と登戸・向ヶ丘遊園・鷺沼
モチベーションはなぜ保たれたか、夢追い人たちへ贈る、明日へのヒント
役者として生活できるようになるまで、当然不安は大きかった。20代は暗黒時代。二度と戻りたく無いと思う。でも、今の妻には20代の時に出会っている。妻が心の支えになっていたことは間違いがない。美談にしようというつもりはなく、本当に心から思っている。それと、恩人と呼べる3人に、僕は、29、30、31歳と立て続けに会っている。その出会いがなければ、もしかしたら僕も「食えないから」と心が折れていたかもしれない。 1人は、劇団「自転車キンクリート」の演出家 鈴木裕美。僕は、新宿の「スペース・ゼロ」で毎年行われている、有名な作家4人がまだ売れていない若い俳優を選んで力試しの場を提供する「ラフカット」というプロジェクトのオーディションを受けに行き、鈴木裕美に出会った。 2人目は、演出家で映画監督の堤幸彦。裕美さんが演出する舞台に立つ僕を見ていた堤幸彦が、「ブラック・ジャック2」というドラマのワンシーンに僕を起用するために声をかけてくれた。落ち着きなく、首の後ろなどを掻きむしりながら患者にがんを宣告する「医師A」の役だった。 3人目は、今所属している事務所の先代の社長である小口健二。「ブラック・ジャック2」をたまたま見ていた彼が、「こいつをうちの事務所に入れろ」と誘ってくれた。彼は僕にこう言った。「君は必ず売れる。うちじゃなくても、どこに居ても必ず売れる。ただ、うちに来たら少しだけ近道を照らしてあげられるよ」。普通、ドラマの端役、それもワンシーンを見ただけで、こんな風に豪語できる人もいないだろう。そうして僕は、今の事務所フロム・ファーストプロダクションに所属した。 今の事務所に移ってから、ある時「あれ、俺この3ヶ月、バイトをしないで食えているわ」と気づいた。偶然だと思うし、長く続かないかもしれないとも思った。それでも、8年間同棲していた妻にプロポーズした。2002年の出来事、僕は33歳だった。 29歳、30歳、31歳。この3人に出会ったタイミングも絶妙だった。俳優じゃなくても、30歳という歳は迷う。40歳ではまた別の悩みが頭を擡げる。50歳くらいになると「もう続けるか!」ということになるかもしれない。結婚して新しい家族を持ったり、子どもが生まれて生活のために辞めざるを得なかった俳優を、僕はごまんと知っている。みんな、それぞれに力のある俳優だった。実力があっても世に出れない俳優もいる。でも、わからない。本当の実力があれば、世の中はその人を見逃さないような気もする。 「良い時に、恩人に会えたのは運が良かったからだ」と言われれば、それまでかも知れない。でも、能動的にそういう人に出会うためには、自分がやりたいことを、やりたいように一生懸命やり続けるしか方法が無いと思う。その行動が結果的に運を引き寄せることがあるんではないだろうか。だから、もしいま上京を悩んでいる人に声をかけるとしたら「やりたいことをやればいいと思う」だ。やりたいことが東京にしかないなら出てくればいいし、やりたいことが地元でもできるなら地元でやればいい。 そしてもし、当時の自分に、今の自分が助言するとしたら「いまのままでいいよ」だ。たしかに暗黒時代だったし、二度と戻りたく無いとも思うが、そういう経験が今の僕になっていると思うから。 (編集:古堅明日香) スタイリスト:鬼塚美代子(アンジュ) ヘアメイク:今野 亜季(A.m Lab)