【あの人の東京1年目】役者 佐藤二朗と登戸・向ヶ丘遊園・鷺沼
二度の挫折を経て就職、それでも消えなかった俳優の“火種”
会社を辞めたその日、独身寮に荷物は置きっぱなしにして、夜中の鈍行で一度愛知県の実家に帰った。無茶苦茶だ。正直、その時の記憶は、本当にどうかしていたんであんまり正確ではない。ただ、今まで何をやるにも「好きなようにやれ」と言ってくれた父親が半泣きで「お前、なんでそんな1日で辞めるような会社に入ったんだ」と宇宙一の正論を言われたのは覚えている。 置きっぱなしの荷物もあったし、社員証も返却しないといけないし、上司に挨拶もしなければ、と程なくして二度目の上京を果たし、そのまま、登戸のアパートに住み始めた。劇団附属の文学座俳優養成所に入るためにお金を貯めようと、鷺沼駅の近くにあった武蔵学習館という小中学生の学習塾でアルバイトを始めた。 ここでも僕の、合理的なのか非合理的なのかわからない癖は健在だった。目標は「役者になる」で、そのための手段として「養成所に入る。そのための手段として塾講師のアルバイトをしている」はずだった。なのに、僕は行政書士の資格試験を2度受けた。2年連続で落ちた。俳優の養成所に行くためにお金を貯めるけど、俳優になれるかわからないし、新卒絶対の時代に1日で辞めちゃったし、何か手に職を、と考えたんだと思う。でも、落ちた。2年目に至っては、受かると思っていたから、受かる想定で社会保険労務士というもう少し難易度の高い試験の教材も揃えていた。結局、そのテキストは1ページも開かれることはなかった。合理的なんだか、非合理的なのか、全然わからない。 一年後、アルバイトで貯めたお金で目的通り養成所に入った。しかし、劇団員に昇格することはできなかった。上京3年目。別の養成所にも通ったけど、そこでも劇団員にはなれなかった(余談だが、この養成所で今の妻に出会った)。二ヶ所の養成所に通って、どちらでも俳優になることは叶わなかった。それでいよいよ諦めて、小さな広告代理店に再就職をした。26歳の時だった。役者のことは忘れて、がむしゃらに営業職を頑張った。成績も良かった。 「やっぱり芝居がやりたいなあ」という情熱が出てきてしまったのは、サラリーマンとして頑張った一年後だった。なぜ、忘れたはずの役者や芝居を思い出してしまったのか。それは今でもわからない。けど一つ言えることは、消したつもりの火種がまだ残っていたということだと思う。僕は、文学座俳優養成所で同じく劇団員になれなかった奴らを数人誘い、演劇ユニット「ちからわざ」を旗揚げした。