【あの人の東京1年目】役者 佐藤二朗と登戸・向ヶ丘遊園・鷺沼
地方出身の著名人たちが、上京当時を振り返る新連載「あの人の東京1年目」。6人目は、役者 佐藤二朗さん。明るく撮影現場を盛り上げながらも、事前に渡していた質問リストを熟読してくれていたのが伝わるほど、短い時間で的確にインタビューに応じてくれる姿は、「一度は俳優の道を諦めて、サラリーマンとして働き、いい営業成績を残した」という事実に、これ以上ない説得力を持たせます。「明るくて面白い俳優」というパブリックイメージ通りである一方、冷静で真面目であるというのが佐藤さんの本質なのかもしれません。上京して夢を追いかけた若き日の表現者たちは、新しい環境での挫折や苦悩をどの様に乗り越えたのか? 夢追い人たちへ贈る、明日へのヒント。 【写真】会社員時代の佐藤二朗
精神年齢6歳の55歳児 佐藤二朗の幼少期
愛知県春日井市に生まれた僕は、通信簿に小学校6年間「落ち着きがない」と書かれ続けているような子だった。だからと言って、人前に立つのが好きだったわけではなかったと思う。今でも、やっぱり人前に立つと多少は緊張する。ただ、一貫して落ち着きはなかったし、今でも自分のことを「精神年齢6歳の55歳児だ」と思っている。 そんな僕は、小学校4年生の学習発表会で「役者になるために生まれてきたんだ」と思った。それは「好き」とも違うし、卒業文集の将来の夢に「役者」と書くような“夢”とも違った。“運命だ”と信じて疑っていなかった。今思えば「根拠もなくてバカじゃないの」って自分に言いたいけど、それくらいの強さで思っていた。 強い情熱と相反するかのように、子どもに似つかわしくない冷静さも併せ持っていたのが僕だ。「俳優になる運命だ」と思っている一方で「田舎にいる自分が、大都会の東京に行って、生き馬の目を抜く芸能界で、役者として食えるわけがない」と同じくらいの強さで思っていた。「どうせ役者になる運命なのだから」と、部活に打ち込むことも、学園祭でハッスルすることもなかった。でも「それなりの企業に入るためには、勉強を頑張ってそれなりの大学に入学する必要があるな」と思っているような子どもだった。俳優になりたいんだったら、大学卒業後に企業に入社せず、どこかの劇団でアルバイトをする選択肢もあっただろうに、その勇気も無かったのか、その道を選ばずに僕は大学卒業後リクルートに入社するために上京。向ヶ丘遊園の独身寮で一人暮らしを始めた。 それにつけても、合理的なのか、非合理的なのかがわからない。情熱と冷静さ、その相反するものがどうしてここまで共存しえたのか。そしてなぜ、その冷静さを幼い子どもの頃に持っていたのかは今でもわからない。大体、合理的な奴はリクルートを1日で辞めないだろ! そう、僕は新卒絶対の時代に、入社式当日に退社した。「入社日と退社日が同じなのは君だけだ」と言われた。