キリストの傷痕、見方によっては…美術史家が指摘する「意味深」なウラ解釈とは?
この図像はおそらく、「ヴェロニカの聖顔布」から着想されたものだろう。ヴェロニカなる架空の女性がゴルゴタに登るイエスの顔を布でぬぐうと、その布に主の顔がぼんやりと浮かび上がってきたという中世の伝承に基づくもので、彼女や天使がこの「聖顔布」をかざすところが、やはり中世末期から盛んに描かれてきた。 ここまで見てきたのは、主に時祷書写本のなかの細密画で、これらを手にすることができたのは、裕福で身分の高い階層――主に女性――だったと想定されるが、同様の図像は、もっと安価に入手できる版画としても広く流布していた。 このことは、たとえば木版画の《キリストの脇腹の傷の寸法》(5-2、15世紀末、12×8㎝、ワシントン、ナショナル・ギャラリー)などが証言している。「ヴェロニカの聖顔布」を頭部にして、アーモンド型の傷が胴体となり、さらに両手と両足が添えられる。傷口のなかには十字架と心臓も見える。 さらに傷の両脇にはドイツ語の銘文が刻まれている(以下の訳は美術館ホームページの書き起こしに基づく)。 左には、「これは、十字架上で刺されたキリストの脇腹にできた傷口の幅と長さである。悔恨と悲しみと信心をもってこの傷に口づけする者は誰でも、そのたびに教皇インノケンティウスから7年間の贖宥が与えられるであろう」とある。 右には、「信心をもってこの傷に口づけする者は誰でも、突然の死や災難から守られるであろう」と書かれていて、まさに「口づけ」の対象であったこともわかる。
ここで名指されている教皇は、時代から推し量るにおそらくインノケンティウス8世(在位1484-92年)で、「贖宥が与えられる」とあるからには、贖宥状(免罪符)として売買されていたものと推定される。 15世紀後半から16世紀初めにかけて贖宥状が乱発されたこと、そしてそれがルターによる宗教改革のひとつのきっかけになったことはよく知られているが、この傷の絵は、そうしたもののひとつだったのだろう。キリストの傷に「口づけ」することは、罪の赦しを請い願うことでもあったのだ。 ● 中世の巡礼者たちは女性器に 護られつつ聖地の教会を目指した 女性器としてのキリストの傷に関連してさらに面白いことに、それが護符のような役割も果たしていたらしいことを証言する例が比較的豊富に伝わっている。 巡礼者たちが旅のお守りとして身に着けていた鋳造のバッジに、ほかでもなくこの図像が使われているのである(Reiss)。そのひとつ(5-3、14世紀頃)では、外陰部としての傷が、まさしく巡礼者のいでたちで表わされている。巡礼の帽子をかぶり、右手に杖、左手にロザリオをもっているのである。 こうして女性器に模したキリストの傷のバッジを身に着けることで、中世の巡礼者たちは旅の安全を祈願しつつ、聖地の教会堂を目指していたのだろう。母体に戻りたいという無意識の願望を、心理学では胎内回帰と呼ぶことがあるが、外陰部はその入り口でもある。とすると、聖地とはまた母体の置き換えなのかもしれない。