小林幸子「ボランティアをすると自分が救われる気持ちになる」被災地の復興支援から学んだこと
中越地震から2年後に農家を支援
――山古志地区との交流はその後、どうなりましたか。 小林幸子: 山古志では、もう一度農作物を作りたいという一心で、復興とあわせて頑張ってらっしゃった。じゃあ一緒にやってみようと思って、私は地震から2年後に当時の村長から土地を借りて、そこで稲作をするように。山古志は棚田で、軽トラがぎりぎり入るくらいの道で、大きな農耕機械は入りませんから、手で植えて、手で刈って、はさがけ、天日干し、脱穀などほとんどが手作業。地元のみんなや山古志小学校の児童にも手伝ってもらって、一緒にお米を作る活動をしています。そこでできたお米は地震のことを忘れないでほしいということで、いろんなところへお配りしています。東日本大震災や熊本地震のときも届けましたし、落ち着けば能登にも持参したいと考えています。そんなつながりがあるので、山古志には18年間通っていますし、いまも地域の方と交流をさせてもらっています。 ――山古志地区を見続けてきて、被災地はどのくらい復興しましたか。 小林幸子: ほぼ復興したと思います。ただ約20年という長い年月がかかりました。以前、山古志の婦人部のみなさんと東日本大震災の被災地に私たちのお米を持っていったことがありました。先方は農家の方が多くいらっしゃったんですが、山古志のお母さんたちに「元に戻りますか」って心配そうに聞くんです。そしたらお母さんたちが、「こういうことがあったけど、こういうことやるともっとはやくできるよ」と体験をもとに一生懸命、農作業の仕方を説明する。「いまつらいけど、間違いなく植えた苗が実を持つから。私たちもみんなで死のうかと思った人間ばっかりだったけど、死ななくてよかったって本当に思っているのよ。だから頑張ってね」と励ましの声をかけてね。 ――実際に触れ合うことで励まし合っていたんですね。 小林幸子: はい。中越地震のときは全国から多くのボランティアが来てくださいました。だから東日本大震災のときは恩返ししようと、ステージ機材を運んでいる自前の11トントラックに新潟のお米や支援物資を積んで運びました。側面に私の派手な衣装写真がラッピングされたトラックだったので現地でひんしゅくを買うかもしれないと思いましたが、届けることが使命。そうしたらお米をよろこんでくれると同時に、みんながトラックの前で写真を撮って、「だって、ずっと楽しいこと何もなかったから、ものすごくうれしい」と盛り上がってくれたんです。当初は福島に行くことをためらいましたが、本当に行ってよかったと思いましたね。 ――ボランティアとして現地に行くことで、逆に得られるものもあるのかもしれませんね。 小林幸子: そうなんです。自分が応援して、逆に返してもらっているんです。お金だけじゃない、食べるものだけじゃない、エネルギー。パワーというか熱量ですよね。ボランティアしていると、不思議と自分が救われる気分になるんです。また、芸能人がボランティアすると売名行為ときまって攻撃されますが、もしそう言う人がいるならば、一言、「一緒にやろう」って言いたいですね。 誰がいいとか、どの人がじゃなくて、もっと大きな気持ちで、みんなで一緒にやらないと。そして、誰かにやってあげているっていうことは、絶対に考えてはいけない。誰かじゃない、誰にじゃない。いつか自分も何かあったときには、誰かに助けてもらうでしょう。本当に、助け合いの循環ですよね。だから、無理しないで自分ができる範囲でいいと思うんです。 === 小林幸子 1953年生まれ。新潟県出身。1964年10歳でデビュー。79年「おもいで酒」が200万枚突破の大ヒットとなり、日本レコード大賞最優秀歌唱賞をはじめ数々の音楽賞に輝く。同年NHK「紅白歌合戦」に初出場、以降34回出場。近年ではニコニコ動画やYouTubeチャンネルの反響も大きく、若い世代やネットユーザーからも人気。今年芸能生活60周年を迎える。