アントニオ猪木はジャイアント馬場に勝てるか
アントニオ猪木が20日、78歳の誕生日を迎えた。当日は自身のツイッターで動画メッセージを公開。現在、腰の治療で入院中の猪木は、やつれた印象は否めないものの相変わらず目の光は健在で終始笑顔を見せ「元気ですかー! 元気があれば何でもできるを売り物にしてきた人間が、今度は自分に言い聞かせなきゃいけないという。最強の敵と今、闘っています。俺自身です」と語った。しかしプロレスにおける最大のライバルといえば、なんといってもジャイアント馬場。馬場は1999(平成11)年に61歳で他界したが、日本プロレス(日プロ)時代には猪木とBI砲と呼ばれるタッグを結成し人気を誇った。袂を分かってからも1979(昭和54)年「東京スポーツ新聞社創立20周年記念 プロレス夢のオールスター戦」でタッグ復活。しかしながら誰もが夢みた馬場×猪木戦はついに実現することはなかった。もしあの時、馬場×猪木戦が実現したらどんな試合になったのだろうか。あくまでプロレス目線で考えてみたい。
若手時代から宿命のライバルとなった馬場と猪木
猪木は13歳、中学2年のとき貧困を抜け出そうと家族でブラジルに移住、サンパウロ近くのコーヒー園に始まり綿花園、落花生の畑などで汗を流した。兄とともに陸上選手としても活躍、日本にいた頃から得意だった砲丸投げでは大会で優勝するなど成果を見せた。1960(昭和35)年4月、現地を訪れた力道山は有望な新人レスラーを探しており、そこで猪木がスカウトされ帰国、日本プロレスに入団した。その頃、日プロには同じ新人として馬場、大木金太郎らがいた。 猪木のデビューは馬場と同日の1960年(昭和35)年9月30日、相手はひと足早く前年にデビューした大木だった。農園での過酷な労働で培ったフィジカルに恵まれた猪木だが、大木は日本に来る前から韓国でシルム(相撲に似た格闘技)の選手経験もあり、これといった格闘技のバックボーンがない猪木は約7分で敗れている。 一方の馬場は田中米太郎を相手にデビューし、難なく勝利を飾っている。猪木、大木とともに若手三羽烏といわれた馬場だが、プロ野球界から鳴り物入りで入団したこともあり、最初から未来の日プロを担うエース候補としてエリートコースを歩んでいたといわれる。デビュー当時から猪木とは、いま思えば宿命のライバルとしての図式が整っていたことになる。この若手時代、1961(昭和36)年と63(昭和38)年に馬場と猪木は計16回対戦しているが、結果は馬場の全勝。当時、若手の登竜門だったアメリカ遠征なども馬場は経験、NWA世界ヘビー級王座に挑戦するなど猪木に先んじてスター街道を爆進した。猪木がアメリカ遠征に行けたのは結局、力道山の死後だった。 その後紆余曲折あったが、やがては猪木が馬場に追いついてきて、BI砲としてともに日本プロレスを背負って立つ存在にまでなったが、猪木の馬場に対するジェラシーやライバル意識は相当なものがあったといわれる。事実当時から猪木は馬場への挑戦をたびたび口にしていたが、「時期尚早」として対決が実現することはなかった。 さまざまなことがあって、猪木は1971(昭和46)年に日本プロレスを追放処分となり、翌年、新日本プロレスを旗揚げ。一方の馬場も日本プロレスを辞し全日本プロレスを旗揚げして、2人はそれぞれ団体のエースとなりプロレス界を牽引していく。