「人生に幕を下ろしても、お墓は何百年も残る」――墓石デザイナーが見た死生観の変遷
墓石の一般的な普及は江戸時代
そもそも墓石とはいつ生まれたのか。 「墓という字に『土』が入っていることからもわかるように、かつては穴を掘って遺体を埋め、土を盛るくらいでした。庶民が墓を建てるようになったのは江戸時代、高貴な人の墓を模して墓石を建てるようになったと考えられます」(メモリアルアートの大野屋仏事アドバイザー・川島敦郎さん) 明治になり東京の人口が増えると、青山霊園や谷中霊園などの共同墓地ができた。どこの霊園も江戸時代から踏襲したスタイルの「和型三段墓」が多かったようだ。
和型から洋型、デザイン墓石へ
墓石に小さな変化が見られたのは大正時代に入ってから。外国人墓地が広まったり、洋行して海外の墓を見る人がいたりしたことから、憧れを持って背の低い洋型墓を取り入れるようになった。だが、あくまで主流は和型だった。
「戦後に2度、大きな墓のスタイルの変化がありました」 こう語るのは先述の「墓石大賞」を主催する六月書房代表の酒本幸祐さんだ。 「昭和40年くらいが第一次霊園ブームです。高度経済成長期の真っただ中で豊かになり、大型民間霊園が多く誕生しました。第二次ブームは昭和50年代。戦後に地方から上京した人たちがリタイアする時期でした」(酒本さん) 戦後、働き口を求めて上京した若者の多くは次男や三男だった。彼らは東京で家族をつくったが、多くは核家族で、自分たちの墓を造る必要が生まれた。「先祖代々の墓」とは違う、肩の力が抜けた自由な発想で墓を建てる人が多くなった。
時を同じくして、海外からの石材輸入が盛んになる。廉価で墓石に適した石材が幅広く手に入るようになったのだ。 「日本で採掘できる墓石の種類は限られていました。白、あるいは黒がほとんどだったんですね。でも、海外から黄色やグレー、緑などさまざまな種類の石が入ってきて選択肢が広がりました。加工技術の向上も背景にあります」(酒本さん)
これからの墓選び
ここ数十年で和型は減少を続けている。 「洋型墓は重心が低くて地震にも強いんです。新しく建てられる墓は洋型墓、あるいはそれをベースにしたデザイン墓が多くを占めるようになっています。ただし、デザイン墓はお客様にアンケートを取るとシンプルなものがいいという方が圧倒的に多いんですね。理由は目立ちたくないからって」(芦田さん)