【光る君へ】道長の子ども12人の「意外な勝ち組」とドラマで描かれなかった「道長の死後」
● 藤原氏が朝廷を支配したのは 飛鳥時代ではなく平安時代中期から NHK大河ドラマ「光る君へ」は、いよいよ大詰めで、12月15日放送の最終回では、藤原道長の死あたりまでが描かれるようだ。 道長や紫式部が生きた時代は、よほど歴史が好きな人でないとなじみがないが、その後の源平合戦までの百数十年は、さらに知られていない。そこで、「勝ち組」と「負け組」に分かれた道長の12人の子どもたちについて解説しながら、藤原氏全盛から院政の時代を経て武士の時代になるまでを眺めてみよう。 「光る君へ」の功績は、一条天皇などの天皇の人間像をドラマの登場人物として描いたことだ。摂関時代といっても藤原氏が好き放題していたわけではない。 最近、藤原不比等が過大評価されて、藤原氏が飛鳥時代から支配者だったように誤解されている。だが、桓武天皇や嵯峨天皇は独裁者だった。藤原氏が朝廷を支配するのは平安時代中期からで、901年に右大臣菅原道真が左遷されるまでは、他の古代豪族も大臣になっていた。 藤原一族の最有力者の誰かが娘を入内させ、若い天皇を母后に支配させ、外戚として君臨する形は、3人娘が3代の帝の正夫人となった道長の時代に完成した。 しかし、道長の後、外祖父として摂政になったのは、鎌倉時代の四条天皇の外祖父だった九条道家だけである。 代わって、年少の天皇を、実父である上皇(出家すると法皇)が支配するようになり、摂関制では陣定(じんのさだめ)のような合議制だったが、側近との協議だけで決定を下すようになった。 摂関は制度としては残ったものの、実質的な権限を失い、上皇の側近には家柄にこだわらず実力派の公家が集まった。
● 道長の子ども12人の中で 勝ち組ナンバーワンは? 道長(966~1028)には、正夫人の源倫子(宇多源氏)と第二夫人の源明子(醍醐源氏)がいて、それぞれ6人ずつの子がいた。 倫子とは2男4女、明子との間には4男2女がいた。倫子との長男・頼通(992~1074)、五男・教通(996~1075)は関白となった。明子との男子は同等に扱われなかったが、次男・頼宗(993~1065)は右大臣、四男・能信(995~1065)、六男・長家(1005~1064)は権大納言となった。ただ、三男の顕信(994~1027)は、三条天皇からの抜擢してやろうという申し出を道長が断ったのに抗議し、出家してしまった。 女子も、倫子の娘4人は、長女・彰子(988~1074)、次女・妍子(994~1027)、三女・威子(1000~1036)、六女・嬉子(1007~1025)は入内した。だが、明子の娘である三女・寛子(999~1025)は、三条天皇の子で東宮になったが道長の横車で辞退した敦明親王(小一条院)に嫁ぎ、五女・尊子(1003~1087)は村上天皇の孫・源師房に嫁いだ。 この時期の天皇を紹介しておくと、紫式部の時代の一条天皇から、三条、後一条、後朱雀、後冷泉、後三条、院政を創始した白河、堀河、鳥羽、崇徳、近衛、後白河、高倉、安徳、そして承久の変を起こした後鳥羽の順だ。 倫子との第1子・彰子は、一条天皇の中宮となり、後一条天皇と後朱雀天皇を成した。87歳まで生きて、道長死後の半世紀は、亡父の遺訓の代弁者として君臨した。道長の子ども12人のうち、勝ち組ナンバーワンだ。 ● 道長の孫たちの中で 最強の勝ち組は禎子内親王 倫子の第5子・威子は、甥である後一条天皇の中宮となった。娘が後冷泉天皇と後三条天皇の中宮になったが、孫たちは夭折した。 第6子・嬉子は、やはり甥で2歳年下の後朱雀天皇の東宮時代に妃となり後冷泉天皇を生んだが、直後に病で死んだ。後冷泉天皇のもとには、頼通の娘の寛子、教通の娘の歓子が入内したが子がなく、2人は外戚になれなかった。 第3子の妍子は18歳年上の三条天皇と結婚し、禎子内親王(後朱雀皇后)を生んだ。だが、親王の誕生はなく、まもなく三条天皇は譲位、翌年には死去し、10年後には自身も死去した。 三条天皇の愛情は、先に入内して4男2女をもうけた娍子にあったため、妍子はぜいたくな着物を女房たちに着せて酒宴を繰り返し、その出費の多さに道長や頼通からも苦言を呈された。