名奉行「遠山の金さん」の彫り物は、桜吹雪ではなく“女の生首”だった!?『禁断の江戸史』より
芝居小屋廃止に反対した金さん
「その意を受けた鳥居が芝居小屋廃止に動くと、遠山金四郎は『何も庶民のささやかな楽しみまで奪う必要はないでしょう』と強く反対したのです。 将軍・家慶の意向もあり、芝居小屋は江戸の場末である浅草へ移転することで落着しました。もしかしたら、金四郎が将軍に密かに働きかけたのかもしれませんね」 いずれにせよ、目障りに思った水野によって金四郎は大目付に転出させられる。実際は出世であったが、敬して遠ざけられたらしい。 ただ、天保の改革は水野失脚により2年間で終わりを告げ、金四郎は再び町奉行に返り咲いたのだ。
南北両奉行所の奉行になったのは金四郎が初
「ただし、今度は北町奉行所ではなく南町奉行所の町奉行であり、じつは、こちらのほうが在職期間は長かったんです。 しかも両奉行所の奉行になったのは、金四郎が初めてのことでした。彼が町奉行としていかに能力が高かったかがわかります。金四郎は60歳のときに南町奉行を引退し、それから3年後の安政2年(1855)に死去しました」 金四郎が遠山の金さんという名奉行として歌舞伎の演目になるのは、『遠山桜天保日記』など明治20年代になってからのこと。
人気が続いている最大の理由は「芝居関係者の感謝の気持ち」
これに関しては、金四郎が町奉行時代、親しく江戸の町を巡察したり、町人たちをお白洲に呼んで訓戒を述べたりしたこと。相役の鳥居耀蔵が庶民を苦しめたこと。 明治中期に、南町奉行を務めた大岡越前守忠相(ただすけ)の『大岡政談』が人気になったことなどが関係しているようだ。 「ただ人気が続いている最大の理由は、歌舞伎役者や興行主など芝居関係者が、歌舞伎の存続に尽力してくれた金四郎のはからいに感謝したことも考えられます。それによって、彼を名奉行に仕立て上げ、盛んに上演することで、その恩に報いたためだと考えられています」 <文/河合敦> ―[禁断の江戸史]― 【河合 敦】 歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。 1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。
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