名奉行「遠山の金さん」の彫り物は、桜吹雪ではなく“女の生首”だった!?『禁断の江戸史』より
市川左団次が演じた金さんの彫り物も女の生首だった
この『帰雲子伝』は明治中頃に出版されたが、それと同じ頃に、『遠山桜天保日記』という歌舞伎の脚本が竹柴其水(たけしばきすい)によってつくられ、明治座で市川左団次が金四郎を演じられていた。 このときの金さんの彫り物は、やはり女の生首だったという。ただ、これではちょっと格好がつかないと思ったのだろうか、ほぼ同時期に桜吹雪説も登場し、そちらのほうが金さんのトレードマークとして定着していったようである。
金さんは、殺人などの犯罪行為を裁いていなかった!?
以後、名奉行として歌舞伎や芝居で好んで演じられ、やがて映画やテレビドラマの題材にもなっていった北町奉行・遠山金四郎だが、実際に名奉行だったのだろうか? 「お裁きは巧みだったようです。将軍・家慶(いえよし)は、彼の裁判を見聞きし、その見事な訴訟の扱いぶりに感歎し、金四郎のことを褒めたたえています。ただ、もともと金四郎は家慶の側に仕えていたという経緯があり、お気に入りだったこともその評価と関係しているのかもしれませんね」 ちなみに、金四郎が町奉行在職中に殺人などの犯罪行為について、彼自身が主導して名裁きを演じたという記録は残っていない。
なぜ金四郎は庶民の味方に?
それでは、なぜ金四郎は名奉行、庶民の味方となったのだろうか? 「それは、天保の改革と深い関係があります。金四郎が奉行になってまもなく、幕府で権力を握った老中・水野忠邦が天保の改革を開始。 この改革は、庶民にとって憎むべきものでした。庶民に厳しい倹約令や贅沢(ぜいたく)禁止令を出し、江戸の市中にスパイを放って奢侈(しゃし)品を身につけているものを片っ端からしょっ引き、取り締まったからです。 流行作家や歌舞伎役者を弾圧するなど、庶民の英雄や娯楽も奪っていったのです。そんな水野の片棒を担いで、実際に江戸の町で厳しい風俗の取り締まりをおこなったのが、じつは遠山金四郎だったのです」
金さんが現代でも人気ヒーローであり続けるワケ
それにもかかわらず、金四郎の人気が高まったのにはワケがあるのだと河合先生は言う。 「同僚の南町奉行・鳥居耀蔵(とりいようぞう)がさらに輪をかけて水野に忠実であり、庶民を苦しめていると評判が悪かったからなんです。 それに対して金四郎は、庶民にはかなり同情的でした。たとえば、水野が寄席を全廃しようとしたとき、金四郎はそれを諫めていたのです」 さらに歌舞伎の芝居小屋の一件もある。天保12年(1841)に堺町の中村座から火が出て、三座(代表的な三つの歌舞伎の劇場)がみな焼失してしまう。 すると水野は、歌舞伎は庶民の風俗を乱すので、この際、取りつぶすべきだと主張したのである。