カーター元米大統領の理想主義、冷戦構造に翻弄…アラブ・イスラエル全面戦争回避は最大の功績
29日死去したジミー・カーター第39代米大統領は、南部ジョージア州のピーナツ農家出身の庶民派として、ウォーターゲート事件とベトナム戦争敗北の悪夢からさめやらない1970年代後半の米国に颯爽(さっそう)と登場した。満面にスマイルをたたえ、民主党政権として東西冷戦期にあえて「人権外交」を掲げたその実直な政治姿勢に、当時の世界が従来とは違う米大統領のスタイルと新たな時代の到来を感じとったことは間違いない。 【動画】カーター元米大統領…ソ連と核軍縮、米大使館人質事件での救出作戦失敗、ノーベル平和賞受賞
77年1月の就任演説でも、正義を行い、慈しみを愛することが神に求められているという旧約聖書ミカ書の一節を引用し、道徳的義務を強調、人権への米国の関与は絶対的なものと訴えた。その善意は中東和平への取り組みに向かい、78年、当時のサダト・エジプト大統領、ベギン・イスラエル首相とキャンプデービッドの山荘で、13日間の粘り強い交渉の末に達成したアラブ・イスラエル初の単独和平合意、翌年の平和条約調印に結実する。
交渉に関与した元政府高官は「大統領は当初、中東の知識はゼロだったが、善意を持つ人間は話し合いで問題を解決できると深く信じていた」と著し、理想主義者カーター氏の存在が大きかったと述懐する。パレスチナ問題を先送りする矛盾を抱えた2国間和平合意だったが、繰り返されたアラブ・イスラエル全面戦争の危険性を事実上排除した意味で、カーター外交最大の功績と言える。
しかし、その理想主義は結局、東西両陣営で矛盾ときしみが深化していた70年代末期の冷戦構造の激動に翻弄(ほんろう)されることになる。
カーター氏の不運は、79年という世界を震撼(しんかん)させ、その後の国際秩序を大きく左右した年が任期に重なったことだろう。イスラム革命で親米イランを失い、米大使館占拠人質事件では目隠しをされた米外交官の屈辱的光景がさらされた。そしてアフガン侵攻というソ連の南進。当時の米国の威信低下は、いまだに共和党から「弱腰外交」の典型例と批判される。