もはや死語? 高校野球の「エースで4番」が激減した理由
球種の増加が最初の分水嶺に
横浜の愛甲猛と早稲田実業の荒木大輔が決勝で投げ合った80年に、出場校の「エースで4番」率は16.3%だったが、桑田真澄、清原和博のPL学園が制した85年には8.2%と1ケタに割り込んだ。その後、88年や91年のような高い数値の年もあったが、92年には4.1%にまで落ち込んだ。米子東で83年に鳥取県代表として夏の甲子園に出場し、その後慶應大学で野球部コーチや助監督を務めた杉本氏が分析する。 「理由は主に3点あります。まず、投げる球種の増加が挙げられます。かつての高校生はほとんどストレートとカーブしか投げなかった。稀にシュートやパームを持つ生徒がいた程度です。昭和の終わり頃から、スライダーを放る投手が出てきた。今やカットボールやツーシームなど持ち球が多彩になっている。すると、習得するための時間が必要になります。一方で、変化球が増えれば増えるほど、打者も対応するための練習をしなければならない。限られた時間の中で、投手と4番の両立は困難になっています」
作新学院の江川卓(73年)、PL学園の桑田真澄(83~85年)という昭和の甲子園を代表する投手はストレートとカーブで投球を組み立てていた。だが、85年の宇部商業の古谷友宏はスライダーを武器に準優勝投手になった。翌86年の大会後には、こんな総評が掲載されている。 〈松山商・藤岡のスライダー、浦和学院・谷口のスクリューボールが代表するように、多彩な変化球をあやつる好投手が増えた。〉(86年8月22日/朝日新聞) 準優勝投手の藤岡雅樹、ベスト4の谷口英規が目新しい変化球を武器に躍動していた。87年、常総学院の島田直也は初戦敗退した春のセンバツ大会後にフォークを覚え、夏の甲子園では準優勝投手になった。カーブ以外の変化球を覚えた投手が成功したため、全国の高校生が球種を増やすようになったと考えられる。 杉本氏が続ける。 「2点目は投手分業制が広まったためです。40年ほど前の甲子園は1人で投げ抜くのが当たり前でした。しかし、80年代後半から徐々に複数のピッチャーを持つ高校が出てきました。完投しない前提で起用すると、4番では使いづらい。交代投手がそのまま入ると、1チームに数人『4番・ピッチャー』の実力を持つ選手が必要になります。また、先発投手が降板した後に他のポジションを守るのであれば、そのぶん野手として守備も鍛えなければならない。すると、打撃や投手としての練習時間が減ってしまいます」 元祖は87年のPL学園だろう。計画的に野村弘、橋本清、岩崎充宏の3投手を使いこなし、春夏連覇を果たした。かねてから、甲子園での球数過多によって肩や肘を壊す現象が問題視されていた事情も重なり、徐々に他校も真似するようになった。優勝校の投手が1人で全試合を投げ切ったのは94年、佐賀商の峯謙介を最後に現れていない。